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小杉一笑

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

小杉 一笑(こすぎ いっしょう、1652年〈承応2年〉[1] - 1688年元禄元年〉[2])は、江戸時代前期の加賀金沢俳人

来歴

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一笑については、従来、現在の金沢市片町で葉茶屋を経営しており[3]、通称を茶屋新七、俳号を一笑としたとされて来た[1]。しかし、一笑の俗名を茶屋新七とするのは、文政(1818~1831)中期ころの成立と見られる『蕉門諸生全伝』が最も早く、それ以前には見られないとされる[4]。そして、片町に住んだ茶屋新七というのは、一笑の死から100年ばかり後に一笑の末葉・二世であると称した二笑なる俳人の俗名等であり、従来言われて来た属性は、一笑の属性としては疑わしいという[5]

初め松永貞徳門の高瀬梅盛に学び、後に蕉風の句も詠んだ[2]。加賀俳壇を担う逸材として頭角を現し、芭蕉の来訪を心待ちにしていたが[2]、芭蕉が奥の細道紀行で金沢を訪れたのは一笑の没した翌年であり[1]、芭蕉は一笑の追悼会でその死を悼み「つかもうごけ我泣く声は秋の風」の句を詠んだ[6]

菩提寺

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一笑の菩提寺は、大正年間に金沢の成学寺とされたが、昭和31年、郷土史家の殿田良作が過去帳を根拠として願念寺(金沢市野町)であるとした[7]。願念寺には、「一笑塚」および、芭蕉が詠んだ「つかもうごけ…」の句碑が設けられている[6]

しかし、殿田が根拠とした過去帳は不完全なものであるとされる[8][9]。そして、願念寺は浄土真宗の寺であるが、宝井其角の『雑談集』に見える、死の床にあった一笑による、亡父追善のため13巻の歌仙を巻き終えて死んだという並外れた自力回向、一笑追善集『西の雲』に載る僧の追悼句に詠まれた棚経、一笑その人による亡父追善句に詠まれた位牌が、それぞれ浄土真宗の宗旨と矛盾し、願念寺は菩提寺とは考えにくいという[10]

これに変わる試論として、一笑追善集『西の雲』に芭蕉・曽良に続いて載る僧2名のうちの1人の名が雲甫であり、芭蕉の金沢来訪時に同名の僧が属していたことや、加賀蕉門の句空の選集に卍山道白(芭蕉の金沢来訪時の大乗寺住持)の詩偈が見えることなどを根拠として、大乗寺の名が挙げられている[11]

脚注

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参考文献

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  • 学芸員おすすめの所蔵品500”. 石川県立歴史博物館. 2024年2月27日閲覧。
  • 一笑”. 山梨県立大学. 2024年2月27日閲覧。
  • 「愛蔵版ふるさと人物伝」編集委員会 編『愛蔵版 ふるさと人物伝』北國新聞社、2010年8月30日。ISBN 978-4-8330-1762-6 
  • 李炫瑛「小杉一笑の俳歴」『日本文学』第50巻第9号、日本文学協会、2001年9月、20-28頁、NAID 110000306562 
  • 神保と志ゆき「小杉一笑考 : 「茶屋新七」「願念寺」への疑問及び芭蕉と大乗寺卍山道白についての一試論」『連歌俳諧研究』第145号、俳文学会、2023年9月、14-27頁。 
  • 【まちネタ】願念寺にある 芭蕉と親しかった加賀を代表した俳人・小杉一笑(いっしょう)の塚”. いいじ金沢. 能登印刷株式会社 (2022年1月28日). 2024年2月27日閲覧。
  • 高木蒼梧『俳諧人名辞典』巌南堂書店、1970年。 
  • 大河良一『加能俳諧史 改訂版』清文堂、1974年。 
  • 密田靖夫『芭蕉・金沢に於ける十日間』兼六吟舎、2000年。ISBN 4-89010-372-4