小林一喜
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こばやし かずよし 小林 一喜 | |
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生誕 |
1934年4月10日 栃木県 |
死没 | 1991年2月19日(56歳没) |
死因 | 心不全 |
国籍 | 日本 |
出身校 | 東京外国語大学 |
職業 | ジャーナリスト |
小林 一喜(こばやし かずよし、1934年(昭和9年)4月10日 - 1991年(平成3年)2月19日)は、日本のジャーナリスト。朝日新聞編集委員、ニュースステーションコメンテーター。栃木県出身。
来歴・人物
[編集]年表 | 経歴・備考 |
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学生時代 | 東京都立九段高等学校→東京外国語大学を卒業 |
1957年 | 朝日新聞社に入社、大阪・東京社会部員を経てヨーロッパ総局員、東京五輪や大学紛争の取材にあたるなど幅広い記者活動を展開、このあと東京社会部次長、論説委員、編集委員を歴任[1] |
1985年10月 | テレビ朝日の『ニュースステーション』でコメンテーターとなり[1]、久米宏・小宮悦子と名トリオとして親しまれ、報道番組としては異例の高視聴率を維持[1] |
その他 | 大の中日ドラゴンズファンで、スポーツコーナーではよくコメントしており、1988年のリーグ優勝決定当日は番組内で優勝記念のくす玉を割る大役を務めた。1990年の神戸高塚高校校門圧死事件の報道では、そのニュースが読まれた直後、「校門は羊を囲い込む檻じゃない」と、甚だしい憤りを見せて非常に強い口調で非難 |
1988年以降 | 度々体調不良で番組を休み、療養中の1991年1月17日、湾岸戦争開戦を受けて、番組スタッフに送ったFAXに「NO MORE WAR 一日も早い平和を」と書いたものが、番組コメンテーターとしての最後のメッセージとなった |
1991年2月19日 | 心不全のため56歳で死去[1]、亡くなった2日後、ニュースステーションは冒頭約20分間に追悼特集を組み、小林の妻が記した手紙を涙を流しながら小宮が読みあげた、その訃報はライバル番組である『FNN NEWSCOM』(フジテレビ)でも伝えられ、キャスターの木村太郎は「本当に惜しい人を亡くしました」と語った |
没後 | 小林を偲んで、論説委員時代に執筆した天声人語などを再録した『テムズの川霧が消えた』が上梓された |
エピソード
[編集]ニュースステーションのスタートに際し、小林にコメンテーターの白羽の矢を立てたのはテレビ朝日の小田久栄門だった[2]。コメンテーター役を選ぶにあたって、まず朝日新聞社長の中江利忠から経歴や写真、当人の書いたものなどを見せてもらい、数十人の候補者のなかから5人に絞ったが、そこから先がなかなか進まなかった[2]。そこで、小田は中江に本物の人物を見せてくださいと頼んで、論説室や編集委員室にされげなく足を運び、狙いをつけたのが小林だった[2]。久米の軽さとバランスが取れる重みのある人物、ある程度マスクがよく、論説口調でなく端的に短く、歯切れよく喋れる人という点から見て、小林はピッタリの人物だった[2]。小田が「小林さんをほしい」と言うと、中江も「私も彼を推薦しようと思っていた」と言い、スパッと決まった[2]。
愛称は「ピンキーさん」。久米はしばしば「こばやしいっきさん」と呼んでいた。温和で楽観派で、組織が沈み込んだりすると、いつも笑って励ました[3]。深夜の飲み会に付き合う小林は、決まって、"いや、圧勝、圧勝"と言って[2]、番組の視聴率が低迷していた初期の頃、この言葉で若いスタッフを励ました。亡くなってから小林さんに代わる方はいろいろいたが、やはり小林さんの存在は大きかったと小田は記している[4]。
著書
[編集]- 『テムズの川霧が消えた』朝日新聞社、1991年4月。ISBN 4-02-256312-5 。
- 『テムズの川霧が消えた』朝日文庫、1992年9月。ISBN 4-02-260728-9。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 嶌信彦『メディア 影の権力者たち』講談社、1995年4月。ISBN 978-4062076289。
- 小田久栄門『テレビ戦争勝組の掟 仕掛人のメディア構造改革論』同朋舎、2001年12月。ISBN 978-4-8104-2737-0。