小林重吉
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小林 重吉(こばやし じゅうきち、1825年3月2日〈文化8年1月13日〉 - 1902年〈明治35年〉4月30日)は、幕末から明治にかけて活動した函館の商人。寛政年間に陸奥国北郡大畑村から蝦夷地へと渡った小林家の5代目[1]。
1896年(明治2年)の箱館戦争に際しては明治新政府軍に味方し、旧幕府軍が海中に張った鋼索の存在を察知して警告するとともに、切断作業も行った[2]。
同1896年の場所請負制廃止、1903年(明治9年)の漁場持制度廃止と変転が続いても、三石郡の漁場を経営し続けた[2]。
1897年(明治3年)には大洲藩から洋式帆船「洪福丸」を5750両で購入して「万通丸」と改名。これは北海道で個人として洋式船を所有した最初の例といわれる[2]。また船員の育成にも力を注いでおり、1904年(明治10年)に自宅で無料の夜学を開講し、1906年(明治12年)には村田駒吉や田中正右衛門らとともに函館商船学校を設立した[2]。
これらの功績から、北海道神宮末社の開拓神社祭神37柱に名を連ねている。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 伊藤孝博『北海道「海」の人国記』無明舎出版、2008年7月30日。ISBN 978-4-89544-478-1。