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小槻永業

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

小槻 永業(おづき の ながなり、生年不詳 - 長寛2年12月8日1165年1月21日〉)は、平安時代後期の貴族左大史小槻政重の子。官位正五位下・左大史。

経歴

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小槻氏は代々大夫史に任ぜられていたが、長兄・小槻師経が大夫史を務めるにあたって能力に不安があったことから、永業が師経を補佐することになり[1]鳥羽院政期半ばの天養元年(1144年)2月に永業が右少史に任ぜられると、外記局の清原重憲の許にまで異例の初参を行っている[2]。同年3月に父・政重が没するが、永業に大夫史の職務を補佐させることが、兄弟間の争いへと発展することを危惧したためか、政重はその死に際して、「家を継いで大夫史として出仕することと、大夫史の職務遂行に不可欠の官文書を進退することとが決して分かつことがないように」との起請を書きおいたとされる[3]。ここから、長男・師経を家の後継者たる大夫史とする一方で、次男・永業が官文書の進退に関わる部分を担うことになったことが窺われる[4]

のち、左少史を経て、久安3年(1147年)正月に右大史、4月に左大史と昇任されるが、翌久安4年(1148年従五位下叙爵すると大夫史とはならずに官史を辞して弁官局を去る。その後は散位となり、家の分解を危惧していた父・政重の意向を順守して兄・師経の補佐役に徹していたか[5]。なお、永業の補佐もあってか、師経は大夫史としての職務を大過なく務めたらしい[6]。またこの間の保元元年(1156年後白河天皇により復活された記録荘園券契所の寄人に師経とともに任ぜられている。このとき寄人に任ぜられた12人のうち散位であったのは永業のみであり、官職を帯びずともその力量を見込まれたとも考えられる[5]

保元2年(1157年)8月に永業は右大史として約10年ぶりに弁官局に復帰する。同年10月に師経が没すると、永業は正五位下・左大史兼算博士に叙任されてその後を継ぐ。その後は、備前介摂津守と次々と兼国に預かり、応保元年(1161年)には摂津守を辞す代わりに、弟の小槻隆職を左少史から佐渡守に遷任させている。応保2年(1162年)には大炊頭を兼帯する。保延3年(1137年)以降、大炊頭は中原氏の歴代局務(外記上首)がほぼ世襲していたことから[7]、当時の永業が歴代の中原氏の中に割って入り込めるだけの政治力を持っていた様子が窺われる[8]

長寛2年(1164年)12月に永業は急病に伏し、その死の床で大夫史・算博士・大炊頭・佐渡国知行するための文書などを子息の広房に譲る。広房への相続にあたって、永業は横槍が入るのを予想しており、太政大臣藤原伊通に対して造東大寺次官・三善為信を派遣し「大夫史・算博士・大炊頭・佐渡国の文書、それら全てを広房に譲りました。異議・差し出口も出ることでしょう。」という内容を伝えさせた[9]。永業は広房への相続からまもない同月8日に卒去。

結局、強行に進められたこの相続に対して、永業の弟・隆職が異議を挟む。結局、二条天皇の指示によって、翌長寛3年(1165年)正月に隆職が左大史(大夫史)に、広房が算博士に任ぜられた[9]。この時点で、隆職は30歳、広房は17歳であったが、大夫史の地位を得るためには、それまでの経験を重視するのが当時の一般的な認識であったことから、13歳も年下の広房に不利であった[10]。ここで小槻氏は大夫史を受け継ぐ隆職流(のち壬生流)と算博士を受け継ぐ広房流(のち大宮流)に分裂した。

官歴

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系譜

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系図纂要』による。

脚注

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  1. ^ 「或長者頗不堪其器、局中有違乱之時、為補其闕、有被加事、所謂永業被副師経」『玉葉』建久2年4月23日条
  2. ^ 『清原重憲記(伏見宮本)』康治3年2月17日条
  3. ^ 『壬生家文書』39,文永10年7月小槻有家起請案
  4. ^ 今井[2015: 39]
  5. ^ a b 今井[2015: 41]
  6. ^ 今井[2015: 40]
  7. ^ 遠藤珠紀「中世前期朝廷社会における身分秩序の形成」(村井章介編『「人のつながり」の中世』山川出版社、2008年所収)
  8. ^ 今井[2015: 44]
  9. ^ a b c 「年月日未詳小槻隆職筆起請文」(『大日本史料』4-補遺,建久9年10月29日条所収)
  10. ^ 今井[2015: 45]
  11. ^ a b c d 『本朝世紀』
  12. ^ 『清原重憲記(伏見宮本)』
  13. ^ a b c d e f 『兵範記』
  14. ^ 『東大寺文書』「東南院文書」214
  15. ^ 『石清水文書』「田中家文書」620
  16. ^ 『山槐記』
  17. ^ 『山槐記』所収「除目部類」

参考文献

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