コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

小沼川

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
小沼川
小沼川跡の遊歩道
小沼川跡の遊歩道
水系 一級水系 石狩川
延長 10 km
平均流量 -- m3/s
水源 札幌市白石区
水源の標高 20 m
河口・合流先 月寒川(白石区)
流域 北海道石狩振興局管内
テンプレートを表示

小沼川(こぬまがわ)は、北海道札幌市白石区にかつて存在した石狩川水系月寒川支流の河川である[1]

流路

[編集]

白石区内の菊水付近にあったに源を発し、国道12号をくぐり、豊平川望月寒川の間を北東方向へ平行に流れる。最終的に、逆川(旧月寒川)に合流する[1]

歴史

[編集]

札幌市は豊平川が形成した広大な扇状地の上に築かれた街である。昭和初期までは、扇状地の末端に当たる海抜20m付近にアイヌ語で「メㇺ」と呼ばれるいくつもの湧水池、メㇺを水源とする小河川が存在した。それらの例が中央区サクシュコトニ川北海道大学植物園北海道知事公館の湧水、セロンペツ川である。小沼川も同様に扇状地を水源とする小河川であった[2]

江戸時代後期まで、豊平川は現在の伏篭川(ふしこがわ)の流路をたどって北に流れ、琴似川(旧琴似川)と合流した末に現在の札幌市北区篠路で石狩川に注いでいた。一方で小沼川は現在の白石区菊水付近の湧水を水源として北東に流れ、月寒川厚別川野津幌川を合わせた末に現在の江別市対雁(ついしかり)で石狩川に注いでいた[3]。小沼川は当時の和人に「ツイシカリ川」と記録され[4][注 1]、アイヌ語でサッ・ポロ・ペッ(乾いた大きな川)と呼ばれた豊平川とは別の水系であった。

だが寛政年間(1800年頃)の大洪水によって豊平川は流路を北東に転じ、小沼川水系に流れ込む。以降の豊平川は小沼川の流路をそのまま下流部として石狩川に至り、それ以前の豊平川下流は「フㇱコ・サッポロ・ペッ」(古いサッポロ川)と呼び習わされた。これが伏篭川の名称由来である[4]幕末期に付近を訪れた探検家の松浦武四郎は対雁の地からツイシカリ川(豊平川)を遡り、厚別川や野津幌川の合流点を確認した末に、「小沼川」の水源である「ツイシカリメム」(ツイシカリの湧水池)と、「チカフセトシメム」(鳥の巣のある湧水池)の、2か所のメㇺを確認している(表記は原文ママ[5]

明治以降の開拓の歴史の中で、豊平川流域は北海道の首府・札幌として開発され、豊平川も治水の一環として昭和16年(1941年)に東区雁来町中沼町を結ぶ新流路が開削・通水され、対雁に注ぐ従来の流路と切り離された。さらに戦後に札幌市の市街化が進むにつれて地下水位が低下し、市内のメㇺは軒並み枯渇していった[6]。小沼川の水源である「トイシカラメㇺ」も同様に枯れて埋め立てられ、跡地には昭和28年(1953年)に札幌東高校の新校舎が立てられた。小沼川の川筋もすべて埋め立てられ、令和初期の現在では跡地を通る遊歩道と函館本線に架けられた鉄橋で川の名残をうかがうのみである。

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ 「ツイシカリ」の地名語源について、榊原正文は自著において、「かつて石狩川は現在の対雁から世田豊平川、旧豊平川、モエレ沼を経て、篠路から茨戸川に流れ込んでいた。後に石狩川の流路が変わり、それまでの流路は「トゥエシカリ」(元の石狩川)、その入り口である現在の対雁の地が「トゥエシカリ・チャロ」(元の石狩川の入り口)と呼ばれるようになった」との説を提唱している[4]

出典

[編集]
  1. ^ a b 札幌市 1977, p. 207.
  2. ^ 釣歩記 2006, p. 119-129.
  3. ^ 山田 1984, p. 40.
  4. ^ a b c 榊原 2002, p. 220-224.
  5. ^ 榊原 2002, p. 8-10.
  6. ^ 釣歩記 2006, p. 121.

参考資料

[編集]
  • 札幌市教育委員会 編『さっぽろ文庫1 札幌地名考』北海道新聞社、1977年9月26日。ASIN B000J8YFS6 
  • 山田秀三『北海道の地名』北海道新聞社、1984年10月31日。ISBN 978-4893633217 
  • 榊原正文『データベース アイヌ語地名3 石狩Ⅱ』北海道出版企画センター、2002年12月5日。ISBN 978-4832802056 
  • 榊原正文『アイヌ語地名釣歩記』北海道出版企画センター、2006年2月25日。ISBN 978-4832806030