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小泉忠之丞秀督

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

小泉 忠之丞 秀明(こいずみ ちゅうのじょう ひであき)は、江戸時代(寛保~享和)の信濃高島藩(諏訪藩)藩士。はじめは藩主の御道具持であったが、その後、御先手となる。※「小泉忠之丞秀督」とタイトルにあるが正しくは秀明である。秀督は、小泉家二代目小泉忠佐久秀督のことである。ただ、小泉家二代忠佐久秀督は二代目忠之丞と名乗っていたため忠之丞秀督と記載があっても間違いではない。荒木流武芸集等に記載がある忠之丞秀督は二代目を指す。

小泉忠之丞秀明は、松見家七代で信濃国諏訪郡大熊村に居住していた小口笹右エ門秀安の次男として生まれる。訳あって母の里、小泉を名乗り小泉家の初代となる。八剱神社入口近くの山形屋仁左エ門(後に宮坂と改苗?)の娘を娶り、二男一女をもうけ諏訪郡小和田村に居住。享和2年(1802年)四月三日死去。行年五十九歳。

荒木流武芸                                                                 忠之丞秀明は、荒木流武芸の免許皆伝者であり武芸道場を開き、その門弟は三百余人いるほどの道場であった。武士や町人等多くの人が通った道場であったのだろう。忠之丞秀明は、荒木流始祖である荒木夢仁斎秀縄から数え十二代目の免許皆伝者である。安永9年8月に堀田嘉●氏から荒木流傳巻(免許)が伝えられている。忠之丞秀明の著書とされる「軍旅侍功鈔」(天保12年/1841年)は、アメリカ議会図書館日本古典籍4037に収録されている。本書が米国に渡った経緯は不明である。

二の丸騒動                                                                    高島藩のお家騒動として「二の丸騒動」がある。この結末として、家老の諏訪頼保(通称大介)は切腹を命じられるが、その介錯をしたのが忠之丞秀明である。諏訪頼保は、延享元年(1744年)に高島藩家老・諏訪図書家第7代頼英の長男として生まれているので、忠之丞秀明とは一歳違いであった。天明3年7月3日、教念寺の西隣、牢舎前の仕置場で頼保らの切腹や打首はおこなわれたが、この際、忠之丞秀明は藩主から遣わされた刀で見事に介錯をしたため褒美としてその刀をいただいている。なおその刀は、代々小泉家に伝えられてきたが、妖刀として恐れられていたため明治期に諏訪大社に金と米を添え奉納している。一藩士である忠之丞秀明は、この介錯に何を思ったのだろうか。

小泉家の先祖                                                                      小泉家の先祖は、七代前の松見彦右エ門秀利に遡る。彦右エ門秀利は、甲州武田家に仕えた家柄で初名を若狭秀利というがその後改苗し彦右エ門秀利となる。妾腹の子で甲州に居住。武田家断絶後、浪人の身となり信濃国小口郷にたどり着き、その地の領主に召し抱えられた。なお、小口郷は、信濃国諏訪郡小口村であり、諏訪郡旧平野村と思われるため現在の岡谷市銀座付近となる。小泉忠太郎秀重の六男小泉晴吉氏が平成初期にこの地を探訪し地元の古老から聞いた話によると、山の手(おそらく現在の岡谷市山手町)に四ツ家と呼ばれていた四戸の家があった土地があり、そこが後に小口郷と呼ばれるようになったとのことなので、彦右エ門秀利が住居していた場所は岡谷市銀座よりも山手町付近ではないかと推測される。

過去帳では、松見彦右エ門秀利は人皇五捨六代清和天皇六代廟苗伊勢守源頼朝の長男八幡太郎義家の御舎弟新羅三郎義光八世一條甲斐守時信の二男が青木監物時秀の末孫と記録されている。青木監物は安筑史料業所中巻にその名が確認できる。この安筑という地名は松本市・塩尻市周辺の松本平(筑摩野)と安曇野市周辺の安曇平(安曇野)辺りを示すようなので、まさに信濃国である。さらに、安筑史料業所中巻の慶慶軍令状は天正10年(1582年)11月3日に貞慶(深志)が犬甘半左エ門(いぬかいはんざえもん)に出したものなので、松見彦右エ門秀利が生まれていた時代と重なるのではないか。犬甘半左エ門は小笠原家の筆頭家老であった犬甘久知である。また、書状に名前のある貞慶とは、時代背景や犬甘半左エ門に出した書状からするに小笠原貞慶であろう。この慶慶軍令状は、対立していた信濃国筑摩郡の會田氏に小笠原氏が、天正10年(1582年)11月3日から5日にかけて数回、攻撃をかけ城将堀内越前守を討ち取り、矢久城は落城した際のものであるので、青木監物は小笠原貞慶もしくは犬甘半左エ門の家臣であったと考えられる。記録から推測するに、青木監物は、天正3年(1575年)に武田家が滅亡した後、浪人の身として信濃国筑摩郡(現在の松本)もしくは安曇郡にたどり着き、小笠原氏もしくは犬甘氏の家臣となったのだろう。そして、その末孫の松見彦右エ門秀利の身が武田家浪人と記されていたことから、おそらく青木監物と行動を共にし武田家の断絶を見た後に信濃国へ士官を求めて移り住み、さらに故あって小口郷にたどり着いたのではなかろうか。

四代松見太郎エ門は、古主を隠すために家苗を村の名である小口に変えたとされる。古主が武田氏を指すのかそれとも別なのかは定かではない。改苗が、大阪冬の陣の参陣の頃と重なっていることから推測するに、旧領の古主やその家臣との間で何か曰くがあって松見家は小口郷に来ていたのかもしれない。もしくは、古主が小笠原貞慶だとすれば、天正15年に石川数正に従って小笠原貞慶も豊臣秀吉の家臣となったため徳川家の怒りを買っていたり、その後に秀吉の怒りを買って改易となったりと様々あったこと等が関連し「古主を隠」したとするなら想像できなくもない。また、更に時代をさかのぼり、古主が武田家を指すのなら、武田家は諏訪氏を征服しているために武田家に反感を抱く土着の人々がいてもおかしくはない。ゆえに武田家浪人の素性を隠すために家苗を変えたとしたら理解できることである。なお、太郎エ門は慶長19年(1614年)に大阪へ出陣(いわゆる大阪冬の陣)し、慶長19年11月に領主の馬前で討ち死している。行年四十八歳。太郎エ門がどこの戦いで討ち死にしたのかは定かではないが、亡骸は松尾山善光寺に葬られている。松見太郎エ門が領主を守った褒美として、松見家は大熊村(現在の諏訪市湖南大熊)の一部を賜り、五代小口重三郎秀包より大熊に居住している。

※大坂の陣や寛文の宗門改等の年代と太郎エ門の年齢との整合性を考えると太郎エ門が大坂の陣に出陣していたとするとどこかおかしいが現時点ではこれ以上の調べは困難であるので記録のとおりとしている。

高島藩は、慶長19年の大阪冬の陣に初代藩主諏訪頼水の次男で二代藩主諏訪忠恒の弟である諏訪頼郷が、沼田藩土岐家初代土岐定義軍に属し徳川秀忠軍の一員として参戦している。他の高島藩武将は居城の守備等を任され大阪へは参陣していなかったので、太郎エ門が命を懸けてお守りした領主は諏訪頼郷のことと推察される。

■松見家系譜                                                                                                                                                                                                           初代 松見彦右エ門秀利(青木監物時秀の末孫、小口村居住)                                                二代 松見彦八秀則                                                             三代 松見半助秀群                                                              四代 小口太郎エ門秀當(小口と改苗 寛文五年(1665年)宗門人改めによる)                                    五代 小口重三郎秀包(領主より賜った大熊村に住居)                                                  六代 小口笹右エ門秀房                                                         七代 小口笹右エ門秀安                                                        八代 小口勘助秀統(大熊村本家相続、小泉忠之丞秀明の兄)                                                 九代 松見彦右エ門秀締(大熊村目付、再び松見に改苗) 

■小泉家系譜                                                                               初代 小泉忠之丞秀明(松見家七代小口笹右エ門秀安二男、小和田村居住)                                                          二代 小泉忠作久秀督                                                            三代 小泉重作秀継(長野県諏訪市御幣平居住)                                                         四代 小泉團之助秀㥀                                                           五代 小泉忠太郎秀重                                                          六代 小泉清秀秀致  

松見家の家紋は内根三ツ松であるが小泉家は外根三ツ松である。これは母方の山形屋の家紋が外根三ツ松であったからなのか、新家として独立する気概として本家とは異なる家紋を定めたのか、知る由もない。                                        

小泉姓の謎                                                                   忠之丞秀明は母の里である小泉を名乗ることになる。ところで、この小泉とは、どのあたりであろうか。想像を膨らましてみれば、母方である山形屋も実は武田家の家臣であった。そのため、遠い祖先を偲び、武田家時代の郷里を名乗ったとしても不思議な話しではない。武田家の旧支配地域であった場所で小泉を探すと小県郡小泉村という村が見つかる。ここは信濃国の境でもあるためもしかしたらと心が躍る。しかし、先述の小泉晴吉氏は、大泉と小泉という地名が並ぶ地があり、その小泉が家苗の由来であると代々伝えられてきていると話している。近隣では茅野市に大泉山、小泉山という山があり、その小泉山の麓は小泉という地名である。現在の茅野市大字玉川小泉である。晴吉氏が話す言い伝えと、小和田村との距離(8km程度か)からして、茅野市の小泉区で間違いなさそうである。

小泉家のその後                                                                   小泉忠之丞秀明には養父母の名が上がる。この養父母は妻の父母である山形屋(宮坂)であるため、忠之丞は妻の実家に婿入りし、小和田村(現在の諏訪市小和田)に移り住んだのではないだろうか。

二代の忠作久は、忠之丞と同じく剣に腕が立ち荒木流武芸の免許皆伝者である。高島藩に勤めたが役職は不明。忠之丞と同様に道場の師範として荒木流武芸の門弟を指導してきた。文化(4年?)丁卯正月(1807年)母方の山形屋丈之助のために家名を相続し、またこの年に支配者である沢氏に願い出て教念寺の旦下になると記録があるので、小和田村で小泉家の礎を気づいたのは忠作久からと考えられる。晴吉氏の記録によれば、この山形屋丈之助とは忠作久の母の妹の夫(赤沼の要右エ門の弟を養子に迎えいれた)とのことであるので叔父に当たるのだろう。この叔父の願いで山形屋(宮坂)を相続したということのようだ。忠作久は下諏訪下の原、中村末蔵の娘を娶り二男二女をもうけ、安政5年11月25日に死去。行年八十五歳。

さて、忠作久の長男に小忠太という男がいた。この小忠太も忠作久から荒木流の指導を受けており、安政4年(1857年)5月11日に姓を宮坂(祖母の実家の家苗)に変え武芸修行に出ている。そのためこの日を命日としている。行年二十歳。当時の武者修業とはそれだけの覚悟と決意が必要であったのだろう。その後、故郷に帰国したとの記録は無い。この頃の日本は開国に迫られ思想の対立や暗殺が横行した不安定な時代であった。そして、武者修行に旅立った日から10年後には明治新政府が樹立され戊辰戦争が勃発している。こうした時代の動乱の中、小忠太も何かしらの戦さに加わり武人の本懐を遂げたのかもしれない。また、旅路で命を落としていてもおかしくはないだろうし、旅先で居を構え生涯を閉じているのかもしれない。なお、嘉永7年5月に二代目忠之丞秀督から宮坂小忠太に荒木流傳巻が伝えられている。武者修行に旅立つ日の3年前のことであった。

三代重作も武芸達人と言われた人で御幣平(現諏訪市清水)に移り住み、武芸道場を開き門弟百八十余名を有し、群奉行沢市右エ門の手先として勤務した。明治22年7月17日に死去。行年八十五歳。

四代團之助、五代忠太郎の代は今の地より上方(現在の長野県諏訪清陵高等学校周辺)に広く山林、畠を有し農業を営み、團之助は徳川幕府の終わりから明治、忠太郎は明治から大正と共に村役をした。團之介は大正3年10月2日に死去。行年六十四歳。忠太郎は昭和30年12月1日に死去。行年六十八歳。

面白い逸話が残っている。時代は明治に移ったものの、地方の町は未だに江戸時代の風情が続いている。西洋化の流れで裸体禁止が叫ばれ諏訪郡清水あたりでも警察官憲が取り締まっていた。そんな夏のある日、角間川のあたりを裸同然で歩いていた先祖に警察官が「裸禁止である」と声をかけると、その警察を角間川に投げ捨ててしまったという豪快な話。時代から推測するに重作か團之助であろう。

六代清秀は、大日本帝国陸軍輜重兵輸卒第二中隊に所属していたが、終戦後は農業を営み妻つねと娘三人に囲まれ静かな暮らしを送っていた。記録には近衛兵上等兵とあり、馬術に長け、軍からは愛馬に関する表彰を賜っている。

小泉家は、信濃上諏訪で江戸時代から平成時代の約400年間にわたり、武人としてまた村役、農家、軍人としての誇りを持ち、郷土の平和を願って暮らしてきたが、平成11年2月、六代小泉清秀秀至の死去によってその歴史に幕を閉じている。なお、日本国内で企業のコンサルティングをしている岩崎重国氏は清秀氏の孫にあたる。小泉家の意志を残すために代々伝わる「秀」の一字をいただき別名、秀雪と号する。