小畑長左衛門
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小畑 長左衛門 | |
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生誕 |
1893年12月10日 日本 大阪府 |
死没 | 1948年12月18日(55歳没) |
所属組織 | 大日本帝国海軍 |
軍歴 | 1915年 - 1945年 |
最終階級 | 海軍少将 |
小畑 長左衛門(おばた ちょうざえもん、1893年(明治26年)12月10日[1] - 1948年(昭和23年)12月18日[1])は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。位階勲等は従四位勲二等[2]。
経歴
[編集]大阪府出身。1915年(大正4年)12月、海軍兵学校第43期を卒業し[2]、1916年(大正5年)12月に海軍少尉に任官した[2]。佐世保海兵団分隊長心得兼教官などを経て[2]、海軍砲術学校高等科を卒業[3]。「伊勢」分隊長[3]、「比叡」副砲長兼分隊長[3]、「由良」砲術長などを歴任し[3]、1927年(昭和2年)12月に海軍少佐に進級した[3]。その後、「那智」「金剛」各砲術長などを経て[3]、1932年(昭和7年)12月に海軍中佐に進級[3]。
1936年(昭和11年)12月、海軍大佐に進級し[3][4]、「洲崎」特務艦長[3]、佐世保鎮守府参謀兼長崎要塞参謀などを歴任した[3]。1940年(昭和15年)4月15日に「沖島」艦長に着任し[3]、10月15日に「熊野」艦長を経て[3]、1941年(昭和16年)5月24日に「山城」艦長に就任して太平洋戦争開戦を迎えた[1][3]。1942年(昭和17年)9月1日に香港方面特別根拠地隊司令官兼第2遣支艦隊参謀長に転じ[3]、11月1日に海軍少将に進級した[3][4]。1943年(昭和18年)10月19日に横須賀鎮守府附となり[3]、11月1日に横須賀砲術学校長に就任し[3]、終戦時まで在任した[1]。1945年(昭和20年)10月25日に予備役に編入された[3]。
年譜
[編集]- 1915年(大正4年)12月16日 - 海軍兵学校卒業、吾妻乗組[2]
- 1916年(大正5年)
- 1917年(大正6年)9月10日 - 磐手乗組[2]
- 1918年(大正7年)
- 1919年(大正8年)
- 1920年(大正9年)12月1日 - 佐世保海兵団分隊長心得兼教官[2]
- 1921年(大正10年)12月1日 - 海軍大尉、海軍砲術学校高等科学生[3]
- 1922年(大正11年)12月1日 - 伊勢分隊長[3]
- 1923年(大正12年)12月1日 - 海軍砲術学校教官兼分隊長[3]
- 1924年(大正13年)12月25日 - 兼海軍水雷学校教官[3]
- 1926年(大正15年)12月1日 - 比叡副砲長兼分隊長[3]
- 1927年(昭和2年)
- 1929年(昭和4年)11月15日 - 海軍砲術学校教官[3]
- 1931年(昭和6年)11月14日 - 那智砲術長[3]
- 1932年(昭和7年)
- 1933年(昭和8年)11月15日 - 海軍砲術学校教官[3]
- 1935年(昭和10年)11月15日 - 兼海軍水雷学校教官[3]
- 1936年(昭和11年)
- 1937年(昭和12年)
- 1938年(昭和13年)8月20日 - 佐世保鎮守府参謀兼長崎要塞参謀[3]
- 1939年(昭和14年)12月20日 - 横須賀鎮守府附[3]
- 1940年(昭和15年)
- 1941年(昭和16年)
- 1942年(昭和17年)
- 9月1日 - 香港方面特別根拠地隊司令官兼第2遣支艦隊参謀長[3]
- 11月1日 - 海軍少将[3]
- 1943年(昭和18年)
- 1945年(昭和20年)10月25日 - 予備役[3]
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 福川秀樹 編著『日本海軍将官辞典』芙蓉書房出版、2000年。ISBN 482950272X。
- 外山操 編『陸海軍将官人事総覧 海軍篇』芙蓉書房出版、1981年。ISBN 4829500034。
- 海軍歴史保存会 編集『日本海軍史 第9巻』海軍歴史保存会、1995年。