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小笠原安勝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
小笠原 安勝
時代 戦国時代 - 江戸時代前期
生誕 天文19年(1550年
死没 寛永18年2月3日1641年3月14日[1]
別名 喜三郎、太郎左衛門[1]
戒名 良清[1]
墓所 天岑寺[注釈 1][1]
幕府 江戸幕府 旗本
主君 徳川家康秀忠家光
氏族 小笠原氏
父母 父:小笠原安元
兄弟 安次、左大夫、安勝小笠原広重の妻[2]
安村小笠原広正の妻、前島重正の妻[1]
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小笠原 安勝(おがさわら やすかつ)は、戦国時代から安土桃山時代武将徳川家康の家臣。

生涯

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三河国幡豆郡国人である小笠原安元の三男。父兄とともに徳川家康に仕え、自身は側近として近侍した。永禄12年(1569年掛川城の戦いでは敵兵と直に槍を合わせる活躍をし、以降小谷城の戦い長篠の戦い小牧・長久手の戦いなどに従軍して功績があった[1]

天正18年(1590年)家康が関東に移封されると、武蔵国入間郡田中[注釈 2]450石余に移り、文禄3年(1595年)には亡父安元を同郡沢に改葬し、少林寺3世の天海盛呑を招いて天岑寺を建立している。後に知行高は490石となり、以後幕末まで子孫は旗本として同地を知行した[3][4][1]

寛永年間に致仕して家督を子の安村に譲り、寛永18年(1641年)に92歳で死去[1]

脚注

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注釈

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  1. ^ 埼玉県狭山市沢。
  2. ^ 現在の埼玉県狭山市狭山。

出典

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  1. ^ a b c d e f g h 『寛政重修諸家譜』, p. 65.
  2. ^ 『寛政重修諸家譜』, pp. 61–62.
  3. ^ 『狭山市史』, pp. 438–443.
  4. ^ 『狭山市史』地誌編, pp. 467–438.

参考文献

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  • 狭山市 編『狭山市史』 通史編 1、狭山市、1981年。 
  • 狭山市 編『狭山市史』 地誌編、狭山市、1981年。 
  • 寛政重修諸家譜』 4巻、高柳光寿(監修)、続群書類従完成会、1964年。ISBN 978-4-7971-0208-6