小笠原安勝
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時代 | 戦国時代 - 江戸時代前期 |
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生誕 | 天文19年(1550年) |
死没 | 寛永18年2月3日(1641年3月14日)[1] |
別名 | 喜三郎、太郎左衛門[1] |
戒名 | 良清[1] |
墓所 | 天岑寺[注釈 1][1] |
幕府 | 江戸幕府 旗本 |
主君 | 徳川家康、秀忠、家光 |
氏族 | 小笠原氏 |
父母 | 父:小笠原安元 |
兄弟 | 安次、左大夫、安勝、小笠原広重の妻[2] |
子 | 安村、小笠原広正の妻、前島重正の妻[1] |
小笠原 安勝(おがさわら やすかつ)は、戦国時代から安土桃山時代の武将。徳川家康の家臣。
生涯
[編集]三河国幡豆郡の国人である小笠原安元の三男。父兄とともに徳川家康に仕え、自身は側近として近侍した。永禄12年(1569年)掛川城の戦いでは敵兵と直に槍を合わせる活躍をし、以降小谷城の戦い、長篠の戦い、小牧・長久手の戦いなどに従軍して功績があった[1]。
天正18年(1590年)家康が関東に移封されると、武蔵国入間郡田中[注釈 2]450石余に移り、文禄3年(1595年)には亡父安元を同郡沢に改葬し、少林寺3世の天海盛呑を招いて天岑寺を建立している。後に知行高は490石となり、以後幕末まで子孫は旗本として同地を知行した[3][4][1]。
寛永年間に致仕して家督を子の安村に譲り、寛永18年(1641年)に92歳で死去[1]。