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小笠原胤次

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
小笠原胤次
時代 江戸時代中期
生誕 明暦3年(1657年
死没 享保3年2月14日(1718年3月15日)
別名 長六、長左衛門、主膳
戒名 道浄
官位 従五位下肥前守
幕府 江戸幕府旗本御側
主君 徳川吉宗
氏族 小笠原氏#遠江小笠原氏
父母 父:松平定之
養父:小笠原胤治
正室:小笠原胤治の娘
女子、長澄茂武、女子(松平定相室)、長寛、女子
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小笠原 胤次(おがさわら たねつぐ、1657年明暦3年) - 1718年3月15日享保3年2月14日))は、江戸時代中期の紀州藩士江戸幕府旗本御側義頼高天神小笠原氏当主。

紀州藩士・小笠原胤治の婿養子で旗本・松平定之(久松松平家松平定実嫡男)の五男。母は松平氏家臣奥平貞由の娘。通称は長六、長左衛門、主膳。子に長澄、茂武、長寛、娘(松平定相の妻)、娘(駒井親行の養女、小菅正親の妻)らがいる。

1716年(享保元年)、藩主・徳川吉宗江戸幕府第8代将軍に就任すると、吉宗に従って江戸に移り、幕臣として仕え、同年5月25日より御側に任ぜられ、伊勢国安芸郡河曲郡の内に2500石を拝領し、従五位下、肥前守に叙任される。1717年(享保2年)、常陸国筑波郡河内郡に2000石を加増される。同年4月に致仕し、備前恒弘の日本刀を献上する。1718年(享保3年)、享年62で没する。法名は道浄。品川の東海寺に葬られた。家督は次男の茂武が相続した。

登場する作品

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参考文献

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