小笠原貞経
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時代 | 戦国時代 - 江戸時代初期 |
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生誕 | 天文12年(1543年) |
死没 | 慶長19年3月19日(1614年4月27日) |
改名 | 経直(初名)→貞経→治部入道丹斎玄通(号) |
別名 | 幼名:仁徳丸、通称:源次郎、左兵衛、民部 |
戒名 | 常健 |
官位 | 伊豆守 |
幕府 | 徳川幕府 旗本 |
主君 | 小笠原長時→相馬盛胤→義胤→徳川秀忠 |
氏族 | 赤沢氏→小笠原氏 |
父母 | 父:赤沢経智、母:島館入道喜仙[1]娘 |
兄弟 | 赤沢長勝、男子(僧籍)、貞経 |
妻 | 黒木修理進[2]娘 |
子 | 経治、赤沢忠経、赤沢豊経、赤沢守経 |
小笠原 貞経(おがさわら さだつね)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・旗本。
略歴
[編集]天文12年(1543年)、赤沢経智の三男として誕生。当初は宗家の小笠原長時に仕えたが、武田信玄により信濃国から追放されると、陸奥国中村の相馬盛胤、義胤父子に招聘された。相馬氏が伊達氏の坂元城を攻めた際、一番乗りの軍功を挙げ、鎧作原の戦いでも首級を挙げた。
元亀3年(1572年)6月2日、長時から小笠原流弓馬術礼法の道統を託され、天正3年(1575年)8月12日には師範の許状を受けた。慶長9年(1604年)徳川家康に拝謁し、のち徳川秀忠に仕え、廩米500俵を賜り、赤沢から小笠原に復姓した。
慶長19年(1614年)、死去。享年72。
脚注
[編集]出典
[編集]- 『寛政重修諸家譜 第194』