小臣艅犀尊
小臣艅犀尊(しょうしん よ さいそん)、あるいは小臣艅尊(しょうしん よ そん)、または小臣艅犧尊[1][2][注釈 1](しょうしん よ ぎそん)は、中国商代晩期の青銅器で、清代道光年間(一説に咸豊年間)[3]、山東省寿張県梁山で出土した“梁山七器”の一つ。この器全体は双角犀牛形をしており、内底には27字の銘文があり、記録されているのは、商王の夷方征伐時に、小臣艅(よ)に若干の貝幣(ばいへい)を賞賜(しょうし)し、それによって、艅がこの器物を作って記念としたとのことである。この器は出土後、アメリカに流入し、国際オリンピック委員会会長アベリー・ブランデージの収蔵品だったことがあり[4]、現在はアメリカのサンフランシスコ・アジア美術博物館に所蔵されている。[5][6]
出土と収蔵
[編集]小臣艅犀尊は清代道光あるいは咸豊年間(1821年 - 1861年間[3])に山東省寿張県梁山(現在の梁山県)で出土し、同時に出土したものには、青銅鼎・甗などもあった[7]、と伝えられる。これらの青銅器の器型は荘厳重厚、紋様は華麗繁縟で、周商青銅器の典型的代表であって、合わせて“梁山七器”と称する[8]。小臣艅犀尊は出土後に海外に流出し、1920年代初にアメリカ人アベリー・ブランデージに収蔵された。当時のブランデージは裕福なエンジニアでビジネスマンであり、熱心なコレクターで、なおかつ優秀なアスリートであり、後になって国際オリンピック委員会会長を務めた。ブランデージが小臣艅犀尊をサンフランシスコ・アジア美術博物館に寄贈すると、すぐにこの美術館によって収蔵された。[9][10]
器形
[編集]器形に基づけば、小臣艅犀尊は鳥獣尊[注釈 2]に属し、盛酒器である。その器高は22.9cmに達し[注釈 3]、長さは37cm、全体は双角犀牛形をしており、器の口は背部に開いているが、蓋は失われてしまっている。首は前に突き出し、角は反り返り、両耳は起ち上がり、体は豊かに肥えており、四足は荒々しく勇壮、器全体はスベスベで無紋[5][12]。体積感が強く、サイがのっしのっしと歩んでいく様を表現している。[11]
野生のサイは中国では既に迹を絶ち、絶滅前の久しい期間にもわずかに雲南に分布していたが、商代には、犀はただ中国南方に幅広く分布していただけでなく、黄河以北にさえ多くの生息地が存在していた。小臣艅犀尊の器形は写実的で、淳朴さを表し気韻に富んだ一頭のスマトラサイを造成しえている。[13][14][10]
小臣艅犀尊は、現在、犀を造型したもので存世唯一の商代の青銅器である[15]。中国にはもう一つ犀を造型した青銅器があり、それは、1963年陝西興平豆馬村出土の錯金銀雲紋銅犀尊である。錯金銀雲紋銅犀尊は現在、中国国家博物館に収蔵されているが、鋳造年代は前漢時期であり、小臣艅犀尊の商代より遥かに遅れる。[10][16]
銘文
[編集]小臣艅犀尊は、重要な歴史価値も具えている。腹中の鋳銘文4行総27字[17][10]、
- 丁子(巳):丁巳の日。殷人は干支紀日で、商代の干支の中、“巳”は“”と記され、“子”は“”と記されていた[注釈 4]。
- 王𥃻(省)夔(京):商王が夔京を巡視した。“夔京”は地名である。
- 王易(賜)小臣艅夔貝:商王が夔の地で獲得した戦利品の貝幣を小臣艅に賞賜した。“易”は賜に通じる、賞賜。“小臣”は官職名、商朝は建国より滅亡までずっとこの小臣という官職を設けていたものの、責任を負う業務はそれぞれ異なった。“夔貝”、金文では、貝を賜うのに往々にして地名を冠しており、賜った貝幣の戦利獲得の場所を示す。
- 隹(維)王来正(征)人(夷)方:商王が夷方を征討しに来た。“維”は語気詞。“正”は征に通じる、征討。“人方”は即ち夷方、東夷人の一支派、現在の山東省一帯に分布していた。
- 隹(維)王十祀又五:商王が即位して15年目。周代の“王十又五祀”に異なり、商代は全て“王十祀又五”と記する形式であり、他にも『版方鼎』の“唯王廿祀又二”もそうである。
- (肜)日:肜祭の日。
「 | 丁巳の日、商王が夔京を巡視し、商王が夔の地で獲得した戦利品の貝幣を小臣艅に賞賜した。商王が夷方を征討しに来たときのことであり、商王が即位して15年目、肜祭の日である。[18][19] | 」 |
この記載中の夷方の征伐については、同時期の甲骨文とその他の青銅器の銘文と相互に裏付けることができる。この器の銘文中の“王”は商代晩期の君主帝乙あるいは帝辛であり、それはこの器の鋳造が帝乙あるいは帝辛の時期であるはずである[10]。
日本の中国史学者貝塚茂樹も殷末の東方経略に関する重要な記述のあるこの銘文に注目し、後に『古代殷帝国』(みすず書房)に結実する研究の一つとなる論文「殷末周初の東方經略に就いて」(1940年)[21]を執筆した[22]。
注釈
[編集]参考
[編集]- ^ 内藤戊申(項目執筆者), 「小臣艅犧尊」『書道全集1 中国1 殷・周・秦』, 1965, p.74,171
- ^ 松丸道男 他, 1990, p.28,119, ●金文●28
- ^ a b 上掲、「小臣艅犧尊」『書道全集1 中国1 殷・周・秦』, 1965, p.171 で内藤戊申は、道光年間(1821年 - 1850年)出土と解説している。
- ^ 「シカゴ ブランデージ コレクション」(上掲、「小臣艅犧尊」『書道全集1 中国1 殷・周・秦』, 1965, p.74,171)。
- ^ a b 陈履生(摄影)、芳芳(编辑) (2016年3月10日). “国博講堂 商代晩期小臣艅銅犀尊及其收藏者” [国家博物館講堂 商代晩期の小臣艅銅犀尊およびその収蔵者] (中国語). 中国网. 2016年10月1日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年10月1日閲覧。
- ^ 張超俊. “活在歴史里的中国犀牛” [歴史の中に生きている中国のサイ] (中国語). 中国国家地理. 中华遗产 2009年第07期. 中国ナショナルジオグラフィック. 2016年10月1日閲覧。
- ^ 上掲、内藤戊申, 1965, p.171では、これら同時に出土した銅器類を「梁山出土器群」と呼んでいる。
- ^ 金叶(文、图) (2014年3月17日). “西周太保鼎:唯一一件国内館藏的梁山七器(图) [西周太保鼎:唯一国内館所蔵の梁山七器の1件(図)]” (中国語). 广州日报. 大洋网 (新浪收藏) 2016年10月9日閲覧。
- ^ 郑元旭. 迷失的文物. 企业管理出版社, 2009. ISBN 9787802551886 第24章 最朴素的稀世珍宝——小臣犀尊
- ^ a b c d e 陈诗悦 (2016年2月11日). “专访许杰:亚洲不是地理或族群,博物馆要讲述的是关联的故事” [許傑・単独インタビュー:アジアは地理や民族グループに限定されない、博物館こそ言わなくてはならない交流の話] (中国語). 澎湃新聞. 2016年10月4日閲覧。
- ^ a b “以后别去动物园了,来这里看动物吧 [これからは動物園に行かないで、ここに来て動物を見よう]” (中国語). 腾讯新闻. 中国青铜艺术微信号. (2015年6月5日) 2016年10月8日閲覧。
- ^ 中国青铜器全集编辑委员会 编 (2006-09-01). 中国青铜器全集4·商4. 文物出版社. p. 图版说明34. ISBN 9787501010363
- ^ 许杰 (2015年12月28日). “(上海)讲座:藏诸名山:旧金山亚洲艺术博物馆的历史、收藏及展览” [(上海)講座:蔵諸名山:サンフランシスコ・アジア美術博物館の歴史・収蔵および展覧] (中国語). 国图空间. 上海博物馆. 2017年1月12日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年10月7日閲覧。
- ^ 黄宏. 犀牛归来. 中国社会科学报. 2011年4月12日第18版
- ^ 上掲、「小臣艅犧尊」『書道全集1 中国1 殷・周・秦』, 1965, p.171は、「他の類例のない珍品」と評している。
- ^ 苏海涛 (2012年10月25日). “西汉错金银云纹铜犀尊 [前漢錯金銀雲紋銅犀尊]” (中国語). 包頭日報: p. B02. オリジナルの2016年10月6日時点におけるアーカイブ。 2016年10月9日閲覧。
- ^ “Ritual Vessel in the Shape of a Rhinoceros” [サイ形の祭儀容器] (英語). Collection. アジア美術博物館 (サンフランシスコ). 2016年2月17日閲覧。
- ^ a b c 松丸道男 他, 1990, p.28,119, ●金文●28は、
「 丁巳の日に、王(帝辛)が、その祖国である夔の祖先へのお参りに出かけた。王は、家臣である艅に対して、夔の国に産する特別の宝貝(子安貝)を賜った。これは、王が〝人方〟(山東方面?)に遠征して帰路にあった年のことで、またそれは王・帝辛の即位15年、肜祭のときのことでもある。 」 - ^ a b c 上掲、「小臣艅犧尊」『書道全集1 中国1 殷・周・秦』, 1965, p.171で内藤戊申は、貝塚茂樹の論文「殷末周初の東方經略に就いて」を参照して、
「 丁巳の日、殷の王が、當時東夷の一中心地でかつ聖地であった夔(き)(梁山にあたるか)において殷の先祖の祭をおこなった。(貝塚氏は殷民族の原住地を東方と考え、殷の西遷後殷と離れたこの地方を殷末に奪回したのだと想定する)その際、夔に寶藏されていた貝(ばい)を王の近臣、艅(よ)に賞として與えた。時は、王が東夷の地に來り征した年、すなわち王の卽位の十五年の肜(ゆう)の祭の日なり、というのである。その後東夷民族鎭撫のため小臣艅およびその子孫はこの地に定住したので、この器が梁山から出土することになつたのだろうと貝塚氏は考える 」 - ^ 松丸道男 他, 1990, p.16 にも、●甲骨文●【36】として収録されている。
- ^ “殷末周初の東方經略に就いて(上、下)”. 漢字研究データベース. 立命館大学 白川静記念 東洋文字文化研究所. 2019年5月3日閲覧。
- ^ 上掲、「小臣艅犧尊」『書道全集1 中国1 殷・周・秦』, 1965, p.171
参考文献
[編集]- 『書道全集1 中國1 殷・周・秦』(12刷)平凡社、1971年、74,171頁。
- 『甲骨文・金文 殷・周・列国』(初版第7刷)二玄社〈中国法書選〉、1998年。ISBN 4544005019。