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小谷勝重

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

小谷 勝重(こたに かつしげ、1890年明治23年)12月24日 - 1963年昭和38年)10月27日)は、日本の法律家最高裁判所裁判官弁護士

略歴

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1890年(明治23年)12月24日、京都府に生まれる。子供の頃は「とても7歳までもつまい」と医者に言われたほど体が弱く、弱い者びいきとして弁護士を志す[1]1914年大正3年)、法政大学専門部法律科を卒業する。弁護士試験に合格後、大阪で開業する。

1929年(昭和4年)、大阪弁護士会副会長に、1946年(昭和21年)、大阪弁護士会会長に就任する。1941年(昭和16年)『日本取引所法制史論』で法政大学より法学博士を授与される[1]

裁判官任命諮問委員会による諮問の結果、1947年(昭和22年)、最高裁判所裁判官に任命される。1948年(昭和23年)、法政大学監事に就任する。1949年(昭和24年)7月に最高裁判所誤判事件を起こし、1950年(昭和25年)6月に1万円の過料処分となる。

1949年1月23日の最高裁判所裁判官国民審査(初めて実施された最高裁裁判官国民審査)において、罷免を可とする票1,378,268票、罷免を可とする率4.56%で信任。1960年11月20日の最高裁判所裁判官国民審査において、罷免を可とする票3,237,455票、罷免を可とする率9.09%で信任。一人で2度国民審査を受けた最高裁判事は1960年の国民審査における小谷を含む5名が初の事例である。

1960年(昭和35年)12月23日に定年退官[2]

1963年(昭和38年)10月27日に食道がんを手術した後で栄養障害を起こし、東京都市ヶ谷の国立第一病院で72歳で死去した[2]

主な裁判

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警察予備隊違憲訴訟(1952年(昭和27年))[3]チャタレー事件(1957年(昭和32年))[4]砂川事件(1959年(昭和34年))[5]苫米地事件(1960年(昭和35年))[6]など。

著書

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家族

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子に物理学者大阪大学名誉教授小谷恒之がいる。

脚注

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  1. ^ a b 野村二郎 1986, p. 33.
  2. ^ a b 野村二郎 1986, p. 34.
  3. ^ 最高裁判所大法廷 昭和27(マ)23 日本国憲法に違反する行政処分取消請求 昭和27年10月8日 判決 却下 民集第6巻9号783頁
  4. ^ 最高裁判所大法廷 昭和28(あ)1713 猥褻文書販売 昭和32年3月13日 判決 棄却 刑集第11巻3号997頁
  5. ^ 最高裁判所大法廷 昭和34(あ)710 日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約第三条に基く行政協定に伴う刑事特別法違反 昭和34年12月16日 判決 破棄差戻 刑集第13巻13号3225頁
  6. ^ 最高裁判所大法廷 昭和30(オ)96 衆議院議員資格並びに歳費請請求 昭和35年6月8日 判決 棄却 民集第14巻7号1206頁

参考書籍

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  • 野村二郎『最高裁全裁判官:人と判決』三省堂、1986年。ISBN 9784385320403 
  • 野村二郎『日本の裁判史を読む事典』自由国民社、2004年。ISBN 9784426221126 
  • 『昭和人名事典II 第1巻東京篇』(日本図書センター、1989)

外部リンク

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