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小野寺道綱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
小野寺道綱
時代 平安時代末期 - 鎌倉時代前期
生誕 1154年仁平4年/久寿元年)
死没 1221年承久3年)
墓所 栃木県栃木市岩舟町小野寺352-3
氏族 下野小野寺氏
父母 父:小野寺義寛
母:足利俊綱の娘?
兄弟 小野寺秀道
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小野寺 道綱(おのでら みちつな)は、平安時代末期から鎌倉時代前期の武将。下野小野寺氏2代目。小野寺城の城主。下野小野寺氏は山内首藤氏の分家で、道綱の父・義寛(道成)が、源為義から下野小野寺を賜ったことから始まる。

経歴

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治承4年5月26日1180年6月20日)、以仁王の挙兵では平家方の足利忠綱に従い、宇治川の戦いで功績を挙げた。山内首藤氏は代々源氏に使え、源義家の乳母を輩出するなどし、父の義寛も為義に仕えたとされるが、道綱は隣国の藤姓足利氏と共に平家に仕えていたと思われる。しかし、合戦の恩賞として忠綱が新田荘を安堵されると、戸矢子有綱などと共に恩賞の撤回を求めた[1]。この時忠綱17歳、道綱27歳の出来事だった。

寿永2年2月23日1183年3月18日)の野木宮合戦では源義広の挙兵に対して、小山朝政と共に味方すると虚偽の返答を行い、騙し討ちを行った。記録上、この騙し討ちを提案したのは朝政か道綱かは明確ではない。しかし、小山氏藤姓足利氏と同じ秀郷流でありながら対立するような関係であり、義広に対して真っ先に味方することを約束した足利忠綱が「信じられない」といった様子だったことから、母が藤姓足利氏である道綱がこの作戦を提案、あるいは小山氏と結託しており、忠綱を裏切った可能性がある[2]。尤も、先述の通り下野小野寺氏の宗家ともいえる山内首藤氏は代々源氏の重臣であり、道綱の叔父である山内首藤俊通源義朝に従い討ち死している。そのような立場の道綱が源頼朝側につくのは、無理のない話ではある。

同年(1183年5月14日)、栃木県岩舟町(現在の栃木市)にある住林寺にて、野木宮合戦の後に殺害された足利俊綱源義朝に従い討ち死にした俊通に対して、足利家綱、父・義寛と共に供養を行った(ここでは藤原道綱と記載されている)[3]。また、同年8月には本堂を建立している。頼朝側につき、俊綱死亡に加担している道綱が家綱と行動を共にしているのには謎が残る。しかし家綱は俊綱、忠綱と考えが異なり、義広の蜂起に味方するべきではないとしていて、道綱と共に源頼朝に従うべきだと考えていたのなら不思議ではない。

寿永3年(1184年)、道綱は頼朝の命により、源範頼に従い源義仲と平家討伐のために京に上った。その京に滞在中に、法然上人の元を訪ね、「武家に生まれ、仏の教えのことは何もわからないが、殺しの罪の重さに耐えられない。極楽浄土に行く術を教えてくれないだろうか」と願い出、十念を教わったという(住林寺伝承)。時系列から考えて、母の父親を死に追いやり、親しかった足利忠綱を裏切り、義広から恨みを買った野木宮合戦での出来事に後ろめたさを感じていたと思われる。

建久3年(1192年鎌倉幕府が設立されると、道綱は御家人として名を連ねる。以降、小野寺氏は大きく発展していくこととなる。承久3年(1221年)、老体に鞭を打ち、一族郎党を率いて北条泰時に従軍した。同年6月14日7月5日)、宇治川の合戦において五人手討ちにするも討死。享年68才。討ち取られた首は、弟(養子)である秀道とその子の道業が郷里小野寺まで、塩漬けにし持ち帰ったと伝わる。現在、住林寺および小野寺城跡の近くに、墓が残っている。後の弘安の時代には、出家した道業が住林寺にて、7日間道綱の供養が行われた。

脚注

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  1. ^ 『平家物語』。 
  2. ^ 『吾妻鑑』。 
  3. ^ 『住林寺本尊胎内銘』。