コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

小野蘭山

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
「蘭山翁画像」(部分) 文化6年(1809年) 谷文晁筆 小野蘭山賛 国立国会図書館[注 1]

小野 蘭山(おの らんざん、享保14年8月21日1729年9月13日) - 文化7年1月27日1810年3月2日))は、江戸時代の大本草学者。名は識博(もとひろ)、通称は喜内、は以文、は蘭山、朽匏子。しばしば「日本のリンネ」と称される。京都出身。門弟に杉田玄白木村兼葭堂飯沼慾斎谷文晁桜田欽斎水谷豊文三谷公器狩谷棭斎吉田立仙山本盛備大正年間の総理大臣山本権兵衛の養曽祖父)

生涯

[編集]

本姓は佐伯氏。名は職博(もとひろ)[1][2]。京都桜木町(上京区)で佐伯職茂(主殿大允従四位伊勢守)の次男として生まれる[3]

13歳の時から父の師であった松岡恕庵本草学を学ぶ[3]。非常に記憶力がよく一度聞いたことは一生忘れなかったという。ところが5年と経たず恕庵が死去、以後は独学で本草学を学ぶことになる。そんな中、蘭山は一つの壁に突き当たった。実はそれまでの本草学は中国から伝わった李時珍の著書『本草綱目』を元に作られたもので日本固有の動植物鉱物などに適した形をもっていなかった。その事から、蘭山は積極的に山や森に分け入り日本の本草学作りを志した。

通称は喜内、は以文(いぶん)[3]。25歳で京都丸太町に私塾衆芳軒を開塾、多くの門人を教えた。蘭山が研究した本草学は広く知られる事になり日本中から生徒が集まり千人を越える人間が巣立って行ったと言われている。ただ、塾を去って郷里に戻った後も本草学を続けた者は10人に1人もいない、という(『水火魚禽考諸』)。しかし、郷里に戻った門人と蘭山との書簡が数多く残り、手紙で教えを請い続けた弟子もいたようだ。

天明8年1月30日1788年3月7日)、蘭山60歳の時、天明の大火が発生。私塾・衆芳軒も大火にやかれ蘭山も門人の吉田立仙の家に避難。この大火で門弟達は散り散りとなり、しばらくの暇ができた蘭山は、自身の研究をまとめる著作の執筆をして過ごした。

寛政11年(1799年)71歳の時、幕命により江戸に移り医学校教授方となる。享和元年(1801年) - 文化2年(1805年)にかけて、諸国をめぐり植物の採集。享和3年(1803年)75歳の時に研究をまとめた著書『本草綱目啓蒙』脱稿。本草1882種を書き表す大著で3年にかけて全48巻が刊行され、日本最大の本草学書になった(この著書はのちにシーボルトが手に入れ、蘭山を「日本のリンネ」と賞賛している[4])。

小野蘭山墓

文化7年(1810年)1月27日死去。享年82。墓所は練馬区の迎接院。小野家の菩提寺である上京区の阿弥陀寺には墓はないものの、過去帖には記載されている。

没後100年に当たる明治42年(1909年従四位を贈位され、小石川植物園東京大学大学院理学系研究科附属植物園)で「小野蘭山先生百年記念展覧会」が催された。平成22年(2009年)の没後200年記念でも各地で催し物が開かれ、京都府立植物園には「小野蘭山顕頌碑」が建てられている。

栄典

[編集]

エピソード

[編集]

蘭山が残したものにの語源について述べたものがある。蛍は日本書紀の記述からすでに「蛍」、「保多留」などと書かれていて語源については諸説ある。貝原益軒は火が垂る(垂れる、流れる、こぼれ落ちる)から「火垂る」とし蘭山は星が垂るから「星垂る」としている。

主な著書

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ 『蘭山先生生卒考』に収録された平井敬義「先師蘭山小野夫子肖像之記」によると、文晁は蘭山の右横顔を写したが、蘭山は左横顔の瘤も写すべしとして左横顔に描く改めさせたという(平野(2011)pp.17,84)。

出典

[編集]
脚注
  1. ^ 根本曽代子「小野蘭山」『日本大百科全書(ニッポニカ)』、小学館、1984–1994。  @ コトバンク
  2. ^ 「小野蘭山」『世界大百科事典』、平凡社。  @ コトバンク
  3. ^ a b c 「小野蘭山」『朝日日本歴史人物事典』1994年。  @ コトバンク
  4. ^ A.J.C.ヘールツ『 新選本草綱目』序論(仏文、横浜、1878年)。なお、白井光太郎はシーボルトから「東洋のリンネ」と讃えられたとするが、典拠が確認できない(小野蘭山没後二百年記念事業会編集・発行 『衆芳 小野蘭山没後二百年記念事業報告書 2010』 2010年12月31日、p.39)。
  5. ^ 『官報』第7741号「叙任及辞令」1909年4月19日。

参考文献

[編集]
展覧会図録

関連項目

[編集]

外部リンク

[編集]