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小坂信夫

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
小阪信夫から転送)
こさか のぶお
小坂 信夫
本名 吉満 義雄 (よしみつ よしお)
生年月日 (1903-01-06) 1903年1月6日
没年月日 不詳年
出生地 日本の旗 日本 鹿児島県鹿児島市
職業 俳優
ジャンル 劇映画時代劇現代劇剣戟映画サイレント映画トーキー
活動期間 1929年 - 1946年
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小坂 信夫(こさか のぶお、1903年1月6日 - 没年不詳)は、日本の俳優である[1][2][3]。本名吉満 義雄(よしみつ よしお)[1][3]。旧芸名小阪 信夫(読み同)[2]

人物・来歴

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1903年明治36年)1月6日鹿児島県鹿児島市に生まれる[1][3]

長じて大阪帝国キネマ演芸小阪撮影所に入社した[2]。もっとも古い出演記録は、1929年(昭和4年)7月31日に公開された山下秀一監督の『怪談文弥殺し』であり[2]、このとき「小阪 信夫」表記の芸名を使用、同作の公開当時、小坂は満26歳であった[1][3]。帝国キネマ演芸は1931年(昭和6年)8月28日に新興キネマに改組されたが[4]、小坂は京都の帝国キネマ太秦撮影所を改名した新興キネマに継続入社、同年9月24日に公開された『何が彼女を殺したか』に脇役で出演した[1][2]

1935年(昭和10年)12月にマキノ正博が新しく開いたトーキーのための撮影所、マキノトーキー製作所の設立に参加、根岸東一郎監督の現代劇『無鉄砲選手』に出演している[1][5][6]。同社は1937年(昭和12年)4月末には解散しており、葉山純之輔ら大半の俳優は新興キネマ京都撮影所(現在の東映京都撮影所)、マキノ正博らは日活京都撮影所(のちの大映京都撮影所、現存せず)に移籍したが[6]、小坂は東京のP.C.L.映画製作所製作、山本嘉次郎監督の『エノケンのちゃっきり金太』に出演し、同社が合併して東宝映画となり、同スタジオが東宝映画東京撮影所(現在の東宝スタジオ)になると、同撮影所の映画に出演した[1][2]。1939年(昭和14年)には日活多摩川撮影所(のちの大映東京撮影所、現在の角川大映撮影所)、1940年(昭和15年)には大都映画に移籍しており、1942年(昭和17年)1月27日、戦時統合によって大映が設立され、大都映画は合併して巣鴨撮影所は閉鎖されたが、小坂は同社に継続入社する[1][2]

第二次世界大戦終結後も、大映東京撮影所に所属したが、1946年(昭和21年)3月7日に公開された牛原虚彦監督の『街の人気者』に満43歳で出演して以降、出演記録は見当たらない[1][2]没年不詳

おもなフィルモグラフィ

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すべてクレジットは「出演」である[2]。公開日の右側には役名、および東京国立近代美術館フィルムセンター(NFC)所蔵等の上映用プリントの現存状況についても記す[5]。同センター等に所蔵されていないものは、とくに1940年代以前の作品についてはほぼ現存しないフィルムである。

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i キネマ旬報社[1979], p.209.
  2. ^ a b c d e f g h i 小坂信夫日本映画データベース、2012年12月8日閲覧。
  3. ^ a b c d 小坂信夫KINENOTE、2012年12月8日閲覧。
  4. ^ わが町八丁堀 歴年表中央区八丁堀二丁目東町会、2012年12月8日閲覧。
  5. ^ a b c d e f g h i j 小坂信夫東京国立近代美術館フィルムセンター、2012年12月8日閲覧。
  6. ^ a b マキノ[1977]、p.338-374.
  7. ^ エノケンのちゃっきり金太、東京国立近代美術館フィルムセンター、2012年12月8日閲覧。

参考文献

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関連項目

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外部リンク

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