尺素往来
『尺素往来』(せきそおうらい)は、室町時代後期に一条兼良によって編纂されたと言われている往来物。全2巻。
概要
[編集]南北朝時代の僧侶・素眼によって著された『新札往来』を増補して上下2巻に分けたものとされてきたが、両者のテキストの類似部分を詳細に比較した結果、『尺素往来』の表現を節略して『新札往来』の表現が生み出されることはあっても、その逆はあり得ないという事例が多く指摘されている。また、『新札往来』の文字表記は、『尺素往来』の原形に最も近いテキストである内閣文庫蔵大永本二年本とは似ておらず、後出のテキストに近い。以上の事実から、『新札往来』の方が、南北朝の高名な連歌僧たる素眼に仮託して、『尺素往来』を節略改変して作成されたものと推測される。[1]
執筆年代に関しては、勅撰和歌集に触れたくだりにおいて新後拾遺和歌集[2]が最後に置かれ、永享11年(1439年)成立の新続古今和歌集に触れられていないこと、聖上の外祖父が武将を率いる(すなわち、将軍)でありながら准三宮になったと記され[3]、聖上は称光天皇・准三宮は足利義満を指している[4]と考えられることから、称光天皇の在位期に書かれたと考えられている。田村航は以上の年代推定と『新札往来』には存在せず『公事根源』と共通する書(『天地瑞祥志』)からの引用があるのに着目して、称光天皇期の一条兼良[5]の著作であるとする説を呈示している[6]。
全文が1通の書簡となっており、その中に年始の儀礼から日常生活までの68条目における単語の解説・用例が織り込まれている。当時の支配層である公家や武家の文化・生活・教育の水準を知る上での貴重な資料である。
戦国時代の1522年(大永2年)に橋本公夏による写本(内閣文庫所蔵)など、いくつかの写本が残されており、江戸時代には刊行も行われていた。
脚注
[編集]- ^ 例えば、大永本のみが他の諸本と異なる「江柱」「大宿直」「七香湯」「目六」等の独自表記は、『新札往来』では、全て別表記を用いている。(高橋、2022年、pp131-135)
- ^ 「新後拾遺者、為為重卿奉後円融院勅撰之」
- ^ 「大相国者、聖上之外祖、武将之厳親、匪啻被蒙准三宮之宣旨」
- ^ 義満の正室日野康子は後小松天皇の准母、息子(義持)の正室日野栄子は称光天皇自身の准母にあたり、義満と称光天皇は二重の意味で外祖父と外孫に擬制される関係であった(田村、2013年、P70-71)。
- ^ 称光天皇在位期間(応永19年(1412年)-正長元年(1428年))は一条兼良が11歳から27歳の時期にあたり、田村説では兼良の青年期の著作ということになる。
- ^ なお、『年中行事歌合』の増補とされている『公事根源』にも、前者にはなく『天地瑞祥志』から引用されたとみられる記事が存在する(田村、2013年、P72-73・107-112)。
参考文献
[編集]- 石川松太郎「尺素往来」(『国史大辞典 8』(吉川弘文館、1987年) ISBN 978-4-642-00508-1)
- 嶋田鋭二「尺素往来」(『日本歴史大事典 2』(小学館、2000年) ISBN 978-4-095-23002-3)
- 田村航『一条兼良の学問と室町文化』(勉誠出版、2013年) ISBN 978-4-585-22048-0
- 『尺素往来』の成立(原題初出:「『尺素往来』作者考」季刊『ぐんしょ』第34号(続群書類従完成会、1996年))
- 『公事根源』の一条兼良作について(初出:『人文』第2号(学習院大学人文科学研究所、2004年))
- 高橋忠彦「往来物の継承と変質―『尺素往来』から『新札往来』へ―」(『国語語彙史の研究』41(和泉書院、2022年)ISBN 978-4-7576-1032-3)
- 高橋忠彦・高橋久子『尺素往来 本文と研究』(新典社、2022年)ISBN 978-4-787-94353-8
外部サイト
[編集]- 早稲田大学図書館 古典籍総合データベース 尺素往来 - 書籍を撮影した画像ファイル。送り仮名、返り点付き。