屋敷山古墳
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屋敷山古墳 | |
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墳丘(左に後円部、右に前方部) | |
所在地 |
奈良県葛城市新庄 (屋敷山公園内) |
位置 | 北緯34度29分12.62秒 東経135度42分50.58秒 / 北緯34.4868389度 東経135.7140500度座標: 北緯34度29分12.62秒 東経135度42分50.58秒 / 北緯34.4868389度 東経135.7140500度 |
形状 | 前方後円墳 |
規模 |
墳丘長135m以上 高さ15m(後円部) |
埋葬施設 | 竪穴式石室(内部に長持形石棺) |
出土品 | 埴輪 |
築造時期 | 5世紀中葉 |
史跡 | 国の史跡「屋敷山古墳」 |
地図 |
屋敷山古墳(やしきやまこふん)は、奈良県葛城市新庄にある古墳。形状は前方後円墳。国の史跡に指定されている。
概要
[編集]奈良盆地南西部、葛城山東麓の平坦地に築造された大型前方後円墳である。古墳上には中世に布施氏が居館を、近世に新庄藩主の桑山氏が陣屋を置き、「屋敷山」の古墳名はこれらに由来する[1]。その後は墳丘上に貯水槽も設置されたため、墳丘は大きく改変されているほか、1972年(昭和47年)に発掘調査が実施されている。
墳形は前方後円形で、前方部を北北西方向に向ける。墳丘長135メートル以上を測り、葛城市内では最大規模になる。墳丘外表では円筒埴輪・形象埴輪(家形・蓋形・盾形埴輪など)が検出されている[2]。墳丘の前方部西側には張り出し部を付す。また墳丘周囲には周濠が巡らされる。埋葬施設は竪穴式石室で、内部には長持形石棺を据える。中近世に破壊されているため詳らかでないが、石室・石棺の石材が各所で保管されており、竪穴式石室の蓋石と石棺は兵庫県加古川流域産の竜山石製であることが知られる。調査時の出土品としては、ガラス小玉・鉄槍・刀子・鉄釘・鎹などがある[2]。
築造時期は、古墳時代中期の5世紀中葉頃と推定される[1]。大型の墳丘、豪壮な長持形石棺の採用、大王・有力者に限られる竜山石の使用で注目され、葛城地方では代表的な古墳の1つとして古代氏族の葛城氏との関係を示唆する古墳になる。
古墳域は1972年(昭和47年)に国の史跡に指定されている。現在では史跡整備のうえで屋敷山公園として公開されている。
遺跡歴
[編集]- 平安-室町時代、布施氏が居館(里の館)を設置[1]。
- 江戸時代初期、新庄藩主の桑山氏が陣屋(新庄陣屋)を設置[1]。
- 1972年(昭和47年)3月25日、国の史跡に指定。
- 1972年(昭和47年)、史跡整備のための発掘調査(奈良県立橿原考古学研究所、1975年に報告書刊行)。
墳丘
[編集]墳丘の規模は次の通り[2]。
- 墳丘長:135メートル以上
- 後円部
- 直径:77-78メートル
- 高さ:約15メートル
- くびれ部
- 幅:50メートル以上
- 前方部
- 幅:90メートル以上
- 張り出し部
- 南北約25メートル、東西約12メートル
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前方部から後円部を望む
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後円部から前方部を望む
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後円部墳丘
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家形埴輪片
奈良県立橿原考古学研究所附属博物館企画展示時に撮影。 -
馬形埴輪脚部
葛城市歴史博物館展示。
文化財
[編集]国の史跡
[編集]- 屋敷山古墳 - 1972年(昭和47年)3月25日指定。
関連施設
[編集]- 葛城市歴史博物館(葛城市忍海) - 屋敷山古墳の出土石棺・埴輪を保管・展示。
脚注
[編集]参考文献
[編集](記事執筆に使用した文献)
- 史跡説明板(葛城市教育委員会設置)
- 「屋敷山古墳」『日本歴史地名大系 30 奈良県の地名』平凡社、1981年。ISBN 4582490301。
- 「屋敷山古墳」『日本歴史地名大系 30 奈良県の地名 刊行後版(ジャパンナレッジ収録)』平凡社、2006年。ISBN 4582490301。
- 大塚初重「屋敷山古墳」『日本古墳大辞典』東京堂出版、1989年。ISBN 4490102607。
- 「屋敷山古墳」『国指定史跡ガイド』講談社。 - リンクは朝日新聞社「コトバンク」。
関連文献
[編集](記事執筆に使用していない関連文献)
- 『新庄屋敷山古墳 -史跡整備に伴う範囲確認調査の記録-』橿原考古学研究所、1975年。