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山下澄子

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
やました すみこ
山下 澄子
本名 武藤 澄子 (むとう すみこ、出生名)
高木 澄子 (たかぎ すみこ、結婚後)
生年月日 (1899-12-27) 1899年12月27日
没年月日 不詳年
出生地 日本の旗 日本 兵庫県神戸市
職業 女優
ジャンル 劇映画現代劇時代劇剣戟映画サイレント映画
活動期間 1924年 - 1934年
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山下 澄子(やました すみこ、1899年12月27日 - 没年不詳)は、日本の女優である[1][2][3][4]。出生名武藤 澄子(むとう すみこ)[1]、結婚後本名高木 澄子(たかぎ すみこ)[5]

人物・来歴

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1899年明治32年)12月27日兵庫県神戸市に生まれる[1]

1924年(大正13年)早々、帝国キネマ演芸に入社、同社の小坂撮影所に所属し、同年2月22日に公開された中川紫朗監督の『お夏清十郎』に出演して、満24歳で映画界にデビューした[1]。1926年(大正15年)8月12日に公開された森本登良夫監督の『美少年』では、同社のスター、市川百々之助の相手役を務めて主演する[2][3]。その後、多く百々之助の相手役を務めた[2][3]

3年のブランクを経て、1931年(昭和6年)には、日活太秦撮影所に入社、同年12月4日に公開された長倉祐孝監督の『恋の長銃』(スナイドル)に出演している[4][6]。1932年(昭和7年)2月に奈良に設立された富国映画に移籍、『浪人の行く道』(公開は1933年)に出演したが、同社はすぐに倒産し、日活に戻っている[2][3][6]。日活に戻る直前の同年7月、富国映画を退社し、吉田豊作清水俊作らが満洲国(現在の中華人民共和国東北部)を訪れ、舞台実演を行なった記録がある[7]

1934年(昭和9年)10月25日に公開された久見田喬二監督の『捕物五月雨格子』に出演したが、同作以降の出演記録が見当たらない[2][3][4]。山下はこの時点で事実上引退している。同年に発行された『日本映画俳優名鑑 昭和九年版』には、山下での住所は京都市右京区鳴滝桐ケ淵町(現在も同一住居表示)、高木での住所は神奈川県高座郡相原村橋本(現在の同県相模原市緑区橋本)のものが記載されている[8]。その後、山下の消息は伝えられていない[1][5]没年不詳

フィルモグラフィ

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刄傷』(1926年)の帝国キネマ直営館「紀國座」チラシ。左が山下(満26歳)、右は市川百々之助

すべてクレジットは「出演」である[2][3]。公開日の右側には役名[2][3]、および東京国立近代美術館フィルムセンター(NFC)、マツダ映画社所蔵等の上映用プリントの現存状況についても記す[9][10]。同センター等に所蔵されていないものは、とくに1940年代以前の作品についてはほぼ現存しないフィルムである。資料によってタイトルの異なるものは併記した。

帝国キネマ芦屋撮影所

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特筆以外すべて製作は「帝国キネマ芦屋撮影所」、すべて配給は「帝国キネマ演芸」、以降すべてサイレント映画である[2][3]

日活太秦撮影所

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特筆以外すべて製作は「日活太秦撮影所」、特筆以外すべて配給は「日活」である[2][3][4]

脚注

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  1. ^ a b c d e f 山下澄子jlogos.com, エア、2013年2月21日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g h i 山下澄子日本映画データベース、2013年2月21日閲覧。
  3. ^ a b c d e f g h i 山下澄子、日本映画情報システム、文化庁、2013年2月21日閲覧。
  4. ^ a b c d 山下澄子日活データベース、2013年2月21日閲覧。
  5. ^ a b キネマ旬報社[1979], p.302.
  6. ^ a b 高木永二 - 日本映画データベース、2013年2月21日閲覧。
  7. ^ 満洲文化協会[1933], p.582.
  8. ^ 映画世界社[1934], p.73, 99.
  9. ^ 所蔵映画フィルム検索システム東京国立近代美術館フィルムセンター、2013年2月21日閲覧。
  10. ^ 主な所蔵リスト 劇映画 邦画篇マツダ映画社、2013年2月21日閲覧。

参考文献

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関連項目

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外部リンク

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