山中常諦
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山中 常諦(やまなか つねあき、生年不詳 - 1727年7月11日(享保12年5月23日))は、日本の江戸時代の庄屋。藤屋市兵衛の次男、母は不詳、前名を頼貞という、通称は(5代目)吉和屋彌右衛門と称した。
墓所は広島市佐伯区の光禅寺境内墓地にあり、法号は釋常諦信士。
生涯
[編集]山中常有は妻との間に3人の男子を儲けるも3人とも早世したために、常有の長女の婿養子となった。1709年(宝永6年)11月に山中常有が没したために家督を相続し山中常諦と改め(5代目)吉和屋彌右衛門と称した。
常諦以降の歴代の吉和屋(山中家)の当主は吉和屋彌右衛門の通称を継承し塩浜経営を行ったが、江戸後期に入ると塩田不況により、有力な浜主も塩浜をやむなく手放さざるを得なくなり、海老塩浜の塩浜も衰退していき、天保年間には吉和屋(山中家)は塩田不況の影響により塩浜経営に失敗し、多額の借金を背負ったために没落への道を辿る事になった。
参考文献
[編集]- 広島県立文書館『山中家文書展パンフレット』平成19年(2007年)
関連項目
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