コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

山中静逸

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
山中 静逸
生誕 文政5年9月2日1822年10月16日
三河国碧海郡棚尾村東浦
(現在の愛知県碧南市
死没 明治18年(1885年5月25日
墓地 碧南市の貞照院
国籍 日本の旗 日本
職業 書家政治家
テンプレートを表示

山中 静逸(やまなか せいいつ、文政5年9月2日1822年10月16日) - 明治18年(1885年5月25日)は、三河国碧海郡棚尾村東浦(現在の愛知県碧南市)出身の書家政治家である。山中 信天翁(やまなか しんてんおう)として知られる。

幼名は松寿。諱(いみな、生前の実名)は献(まつる)。を信天翁、静逸と称した。

経歴

[編集]
「水墨山水図」 1887年(紙本墨画)

三河国碧海郡棚尾村豪農(素封家)の家に次男として生まれる。父の山中七左右衛門(山中子敏、しびん)は京都で学び、日本各地を歩いて地理を探求し、東浦で子弟の教育を行っていた。

早いうちから大坂篠崎小竹に入門したが、嘉永元年(1848年)に父が死去すると、家業を継いだうえで寺子屋を開いた。しかし、京都に出て国事に奔走していた弟が急死すると、家督をもう一人の弟に譲った。漢学を志して上京し、伊勢国斎藤拙堂に入門した。

3年後に京都に出て梁川星巌頼三樹三郎梅田雲賓勤王の志士と交わり、国事に身を挺した。この頃に富岡鉄斎と知り合い生涯の友となる。安政の大獄では多くの同志を失い、自らの身にも危険が及んだために難を逃れて修学院村に身を隠した。

明治維新後には公家の岩倉具視に仕えた。慶応4年(1868年)の鳥羽・伏見の戦いの際には、朝廷側の食糧や軍事費を調達する役目を担い、また明治天皇の東京行幸の際には御用掛を務めた。明治2年(1869年)7月には桃生県(後の石巻県知事に就任し、明治3年9月には登米県(後の宮城県)知事に就任した。

明治6年(1873年)、52歳ですべての官職から引退した。京都下鴨に転居し、嵐山大堰川畔に「対嵐山房」を結び、文芸三昧の悠々自適の生活を送る。明治10年(1877年)に明治天皇が行幸した際には、白羽二重2反と金75円を賜った。明治12年(1879年)には書の個展を開き、『帖史』という書籍を刊行した。

山中静逸の墓(碧南市貞照院)

明治18年(1885年)に病没。享年64。死後には明治政府より正五位を受け、大正2年(1913年)には従四位を受けた。東浦の神明社(現在の碧南市東浦町三丁目)に信天翁碑が建立され、これに合わせて伝記が出版されている。

作品

[編集]

書籍

[編集]
  • 『帖史』1879年

書作品

[編集]
  • 「山水図」1871年
  • 「長春図」1867年
  • 「水墨山水図」1875年
  • 「天保九如図」1876年
  • 「水墨山水図」1887年
  • 「芙蓉水禽図」1875年
  • 「厳雲小亭図」

参考文献

[編集]
  • 碧南事典編さん会「山中信天翁」『碧南事典』碧南市、1993年、472頁
  • 成田山書道美術館(監修)『近代文人のいとなみ』淡交社、2006年
  • 「文人画の近代 鉄斎とその師友たち」京都国立近代美術館、1997年

外部リンク

[編集]