山内真吉
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時代 | 安土桃山時代 - 江戸時代前期 |
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生誕 | 天正15年(1587年)[1] |
死没 | 寛永9年2月9日(1632年3月29日)[2] |
別名 | 御風、三六郎、左大夫[1] |
戒名 | 知翁道存[2] |
主君 | 松平忠吉、松平忠輝、徳川義直 |
藩 |
清洲藩 藩士 川中島藩/高田藩 藩士 |
氏族 | 山内氏[3] |
父母 | 父:山内真次[4][5] |
兄弟 | 真吉、富永兼勝の妻、真秀、真弘、真永[6] |
妻 | 山崎宗弘の妹[1] |
子 | 三七郎、真民、韮山正勝の妻、吉十郎、井上政茂の妻[7] |
山内 真吉(やまのうち さねよし)は、江戸時代前期の武将。越後高田藩士、のち尾張藩士。
略歴
[編集]遠江国城東郡の武士・山内真次の長男[4][1]。慶長5年(1600年)14歳で松平忠吉に出仕し、稲垣忠政組に属して200石を知行した[1][8]。慶長12年(1607年)忠吉が亡くなると、父と同じく松平忠輝に仕えて250石を知行した。妻として忠輝の生母・茶阿局の親族にあたる山崎宗弘の妹を娶っている。慶長20年(1615年)大坂夏の陣では山田将監の隊下で出陣し、天王寺の戦いで活躍した[7]。元和2年(1616年)忠輝が改易となると父とともに尾張藩に仕えて250石を知行したが、病気により嫡子を弟・真秀に譲り別家を立て、福住元国の同心となった。寛永9年(1632年)46歳で没[4][2]。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 名古屋市役所 編『名古屋市史 人物編』国書刊行会、1981年。
- 名古屋市教育委員会 編『士林泝洄』 2巻、名古屋市教育委員会〈名古屋叢書続編〉、1967年。
- 埼玉県民部県史編さん室 編『埼玉県史調査報告書 分限帳集成』埼玉県民部県史編さん室、1987年。