山口保吉
山口 保吉(やまぐち やすきち)は、明治生まれ-1955年(昭和30年)10月22日の郷土学者。愛知県豊川市御津町生まれ。法名梅山保薫居士
解説
[編集]愛知県三河地方には、愛知県豊川市御津町西方出身の国学者・神職・羽田野敬雄の国学・皇学の流れがあり、愛知県豊川市御津町生まれの山口保吉は、羽田野敬雄、小林彭翁(覚法)両先哲の遺命、古老野媼の指示に基き、また『千種文献』を参考にして、愛知県豊川市御津町に三河吉野朝が存在したことを証明するため、三河吉野朝関連の資料を収集し、『長慶天皇聖蹟考』『三河吉野朝の研究』『芳花鶴水園の聖地』『三河吉野朝年譜』四冊の著書を自費出版した。また、さらに研究を進め「古代神都東三河説」の先駆ともいうべき『瑞穂古事紀 乾巻』『瑞穂古事紀 坤巻』二冊の著書を自費出版した。
三河吉野朝の皇居を定めるに当たって、南朝宮廷(北畠親房)が、熊野本宮と伊勢神宮との串呂線上に「廟社神明宮」(蒲郡市大塚町)、「後醍醐天皇副陵・天皇山」(蒲郡市相良町)、「船山御陵」(豊川市八幡町上宿の船山古墳)、「卍天龍寺」(豊川市平尾町)を建立したとの伝承に基づき下記の神風串呂を明らかにした。
⛩伊勢神宮-⛩廟社神明宮(大塚町)-天皇山(相良町)-国府町(豊川市)-船山御陵(天皇神社)-本宮山(新城市)-宇連山(新城市)-聖山(山梨県)-卍長慶寺(都留市)
また、豊川市八幡町の船山古墳が長慶天皇の御陵であるとの指摘は、三浦芳聖の三浦系図に基づく伝承(小松天皇(南朝)と長慶天皇の菩提陵)と一致している。この他、三河吉野朝関連と思われる地名や寺社名などを数多く収集して地域中心のミニ串呂を数多く解明している。世界で初めて神風串呂に関する著書を出版した串呂哲学の草分け的存在である。
著書
[編集]- 山口保吉『長慶天皇聖蹟考』(山口保吉、1938年)
- 山口保吉『三河吉野朝の研究』(山口究宗堂、1940年)
- 山口保吉『芳花鶴水園の聖地』(山口究宗堂、1943年)
- 山口究宗『三河吉野朝年譜』(1952年)
- 山口究宗『瑞穂古事紀 乾巻』(高天原奉賛会、1957年)
- 山口究宗『瑞穂古事紀 坤巻』(高天原奉賛会、1958年)
参考文献
[編集]- 中西久次郎・家田富貴男『長慶天皇御聖蹟と東三河の吉野朝臣』(三河吉野朝聖蹟研究所、1940年)
- 豊川市「市勢要覧 昭和28年版」(P152から153より)
- 藤原丸山『長慶天皇の傳説と木地屋民 : 尾三遠南朝史論』(南朝史学会、1961年)
- 藤原丸山『三河吉野朝玉川宮御遺蹟の研究』(南朝史学会、1964年)
- 藤原丸山『南朝正統皇位継承論』(南朝史学会、1966年)
- 藤原石山『三河に於ける長慶天皇伝説考』(南朝史学会、1979年)