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山口馬城次

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山口馬城次

山口 馬城次(やまぐち まきじ、1892年明治25年)8月6月[1] - 1987年昭和62年)6月17日[2])は、大正から昭和期の山林地主[3]実業家政治家衆議院議員大分県宇佐郡麻生村長、初代旧宇佐市長、宇佐市名誉市民[3]

経歴

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大分県[2]宇佐郡麻生村[3][4]大字山口[1][4]四日市町を経て現宇佐市)で、山口格の二男として生まれる[5][6][注釈 1]。大分中学校(現大分県立大分上野丘高等学校)を経て[3]、1914年(大正3年)早稲田大学専門部政治経済科を卒業した[2][4][6]。帰郷して1924年(大正13年)父の隠居に伴い家督を相続し[5]農業を営む[2]

1930年(昭和5年)麻生村長に就任し4期在任[3]。1931年(昭和6年)大分県会議員に選出され3期在任し、同副議長を務め、1940年(昭和15年)同議長に就任した[2][4][5][6]。麻生村会議員にも在任した[2]

その他、宇佐郡農会長、大分県養蚕業組合連合会副会長、大日本山林会評議員、大分県森林審議会長、中津銀行監査役なども務めた[2][4][5][6]

1942年(昭和17年)4月、第21回衆議院議員総選挙に大分県第2区から翼賛政治体制協議会の推薦を受け出馬して当選した[3][6][7]。その後、日本進歩党に所属して衆議院議員に1期在任した[2]。この間、大政翼賛会大分県支部庶務部長、同支部常務委員、翼賛政治会政調内務委員などを務めた[4][6]

戦後、公職追放となり[3][8]農地改革で田畑を失った[3]。残った山林の経営と久恒鉱業取締役を務めた[3]。追放解除後、自由党宇佐支部、大分県森林審議会長、同公安委員、同委員長、西日本短期大学理事などに就任した[2][3]。1967年(昭和42年)合併で宇佐市が発足し、友人の木下郁大分県知事らの推薦で市長選に立候補して当選[3]。市長を1期務めて退任した[3]

脚注

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注釈

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  1. ^ 生家は周防大内氏の流れとされる旧家で、広大な山林、田畑を所有した大地主。『大分県歴史人物事典』515頁。

出典

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  1. ^ a b 衆議院『第八十回帝国議会衆議院議員名簿』〈衆議院公報附録〉、1942年、30頁。
  2. ^ a b c d e f g h i 『議会制度百年史 - 衆院議員名鑑』678頁。
  3. ^ a b c d e f g h i j k l 『大分県歴史人物事典』515-516頁。
  4. ^ a b c d e f 『翼賛議員銘鑑』436頁。
  5. ^ a b c d 『人事興信録 第14版 上』カ75頁。
  6. ^ a b c d e f 『大衆人事録 第14版 近畿・中国・四国・九州篇』大分11頁。
  7. ^ 『衆議院議員総選挙一覧 第21回』565頁。
  8. ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、一般該当者名簿732頁。公職追放の該当事項は「翼賛県支部長組織部長協力会議長推薦議員」。

参考文献

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  • 『翼賛議員銘鑑』議会新聞社、1943年。
  • 衆議院事務局編『衆議院議員総選挙一覧 第21回』衆議院事務局、1943年。
  • 人事興信所編『人事興信録 第14版 上』人事興信所、1943年。
  • 『大衆人事録 第14版 近畿・中国・四国・九州篇』帝国秘密探偵社、1943年。
  • 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
  • 『大分県歴史人物事典』大分合同新聞社、1996年。