山名棟豊
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山名 棟豊(やまな むねとよ、天文13年(1544年)[要出典] - 元亀4年(1573年[1]))は、16世紀の戦国武将。山名祐豊の長男[1]。弟に山名義親、山名堯熙(氏政)がいる[1]。
生涯
[編集]16世紀半ば、但馬山名氏の山名祐豊(宗詮)は、因幡国の支配をめぐり因幡山名家の山名誠通(久通)と抗争を続けていた[2]。天文15年(1546年)、橋津川合戦において山名祐豊は、因幡山名家を支援する尼子氏を破り、因幡山名家を没落させた[2]。祐豊は弟の山名豊定を実質上の守護に据え、事実上因幡国を領国化した[2]。
永禄3年(1560年)3月に山名豊定が没すると、代わりの因幡守護は立てられず[2]、祐豊の長男である山名棟豊が派遣された[2]。
元亀4年(1573年)正月に病死したという[1]。
備考
[編集]- 江戸時代に米子の商家であった宮本家に伝来した「宮本家文書」(鳥取県指定文化財)の1点に、棟豊発給の文書がある[3][4]。伯耆国淀江の領主であった村上氏[4]:14[5]の一族・村上新次郎に対し、尼子方と戦うために但馬・因幡から伯耆国方面に向けて出兵することを伝えるものである[4]:15[注釈 1]。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b c d “第四節 戦国時代の出石”. 豊岡市立図書館. 2024年5月16日閲覧。
- ^ a b c d e “調査研究 ある戦国武将の生き様から因伯の戦国時代をみる(第1回)”. 鳥取県埋蔵文化財センター. 2021年11月30日閲覧。
- ^ “鳥取)県保護文化財に5件 大山寺「不動明王坐像」など”. 朝日新聞. (2019年2月7日) 2021年11月30日閲覧。
- ^ a b c d “宮本家文書 補足説明資料”. 2021年11月30日閲覧。
- ^ “県史だより 因幡・伯耆の戦国武将たち(その2):西伯耆国人村上氏”. 鳥取県公文書館. 2021年11月30日閲覧。