山地土佐太郎
山地 土佐太郎(やまじ とさたろう、1878年(明治11年)12月26日[1][2][3] - 1958年(昭和33年)2月2日[1][2][4][注 1])は、大正・昭和期の実業家、政治家。貴族院勅選議員。
経歴
[編集]東京府京橋区新富町(現・東京都中央区)で、警視庁勤務[5]・山地享吉の長男として生まれる[1][3]。山地家は土佐国安芸郡津呂村(現・高知県室戸市室戸岬町)の出身で、先祖代々「津呂組」という鯨組の株主だった[6]。父が西南戦争従軍後、一家は1880年(明治13年)に高知県へ帰郷した[5]。土佐太郎は1888年(明治21年)、安芸郡羽根尋常小学校を卒業[3]。同県土佐郡第一高等小学校に進学したが、父の死去に伴い[5]1891年(明治24年)に高等小学校を中退し、家業に従事した[1][3]。
大火により財産全てを焼失したため[5]、1894年(明治27年)に高知県高知市廿代町の入交太次平商店に入り、大阪支店長兼汽船部支配人に昇進[1][3][4]。宇美炭鉱支配人を経て、1916年(大正5年)に明治物産と山地汽船を創立[1][2][3]。第一次世界大戦に伴う海運ブームで巨万の富を築いたが、没落も早かった[6]。それでも、1918年(大正7年)にはスマトラゴム拓殖を設立し、ゴムノキの栽培事業で再興する[6]など、各社の社長を務めた[1][2][3][4]。
1937年(昭和12年)、極洋捕鯨(現・極洋)を設立して日本捕鯨(後の日本水産、現・ニッスイ)と大洋捕鯨(現・マルハニチロ)が実施していた南氷洋捕鯨に挑戦した。農林省(現・農林水産省)は難色を示したが、同じ高知県出身の永野修身に働きかけ承諾を取り付け、山本五十六海軍次官経由で日本興業銀行から融資を受けたことで、1938年(昭和13年)に念願の南氷洋捕鯨に参入した[7]。この間、神戸商業会議所議員[3]、南洋協会理事、インドネシア協会理事・評議員、商工省顧問、帝国水産統制創立委員、台湾拓殖創立委員などを務めた[4]ほか、先祖に所縁のある室戸岬町に室戸岬水産学校(後に高知県立室戸岬水産高等学校、1999年に高知県立高知海洋高等学校に統廃合)を設立した[8]。
また、馬政家、馬術家としても知られ、農商務省馬政委員会委員、日本乗馬協会評議員、日本競馬会評議員、帝国馬匹協会副会長、東京乗馬倶楽部副会長などを務めた[1][2][3]。
1946年(昭和21年)6月19日、貴族院勅選議員に任じられ[1][2][3][4][9]、研究会に属して活動し、1947年(昭和27年)5月2日の貴族院廃止まで在任した[4]。1950年(昭和25年)の第2回参議院議員通常選挙に全国区から無所属で立候補したが落選した[10]。
著作
[編集]- 編『絶海国師と牛隠庵』雅友社、1955年。
伝記
[編集]- 山地土佐太郎翁伝記刊行東岬会編『山地土佐太郎翁』山地土佐太郎翁伝記刊行東岬会、1965年。
親族
[編集]脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 『高知県人名事典 新版』875頁では2月1日。
出典
[編集]- ^ a b c d e f g h i 『20世紀日本人名事典 そ-わ』2634頁。
- ^ a b c d e f 『日本人名大辞典』1972頁。
- ^ a b c d e f g h i j 『高知県人名事典 新版』875頁。
- ^ a b c d e f 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』175頁。
- ^ a b c d e f g h 『日本の創業者』105頁。
- ^ a b c #板橋p.90
- ^ #板橋p.91
- ^ 眞野季弘 編『くじらの海とともに 極洋のくじらとり達の物語』共同船舶、2002年10月、24頁。
- ^ 『官報』第5831号、昭和21年6月24日。
- ^ 『国政選挙総覧 1947-2016』541頁。