山岡家 (子爵家)
山岡家 | |
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種別 |
武家 士族 華族(子爵) |
主な根拠地 |
武蔵国江戸小石川[1] 東京市浅草区光月町[2] |
著名な人物 | 山岡鉄舟 |
凡例 / Category:日本の氏族 |
山岡家(やまおかけ)は、武家・士族・華族だった日本の家。近世には小禄旗本だったが、維新後に山岡鉄舟の勲功により華族の子爵家に列せられた[3]。
歴史
[編集]山岡家は、山岡正利の代に徳川綱吉に仕えて幕臣となり、その子正備が100俵5人扶持を給された[3]。以降幕末まで家禄は変わらず、微禄の旗本家として続いた[1]。
山岡鉄舟は600石取りの旗本小野朝右衛門高福の五男として生まれたが[3][4]、山岡信吉(天保3年7月20日生、安政5年5月4日承、明治元年4月15日隠、明治29年6月3日没)の妹ふさ(英子 ふさこ、天保14年4月生、明治33年7月没)と結婚して、信吉の養子に入り[3][5]、明治元年(1868年)4月15日に山岡家を相続した人物である[3]。
鉄舟は幕末期に講武所剣術世話役を務めており[3]、江戸城開城時には勝海舟や大久保一翁とともに旧幕府勢力の代表者に立てられて時局収拾にあたり、尊皇攘夷党を起こして朝旨を遵奉し駿府にて東征軍参謀西郷隆盛と会合、江戸城無血開城に漕ぎつけた[2]。また徳川宗家が静岡藩主として存続が許されるよう取りなした[3]。明治後は静岡の権大参事、茨城県の参事、伊万里県の県権令を経て、明治5年から宮内省に勤仕し、侍従、侍従番長、宮内大丞、宮内大書記官、皇后宮亮、宮内少輔などを歴任した[3]。この間も剣術をよくし、明治13年(1880年)3月には一刀正伝無刀流を起こしている[2]。また書道においても弘法大師入木道53世の統を継ぐ事績があった[2]。そして明治20年(1887年)5月、勲功により華族の子爵に列せられた[3]。
明治21年7月19日に鉄舟が死去した後は、鉄舟の長男直記(慶応元年2月2日生、明治21年9月8日承、昭和2年3月4日没)が相続し、2代子爵となった[2]。彼も宮内省に入省して式部官を務めている[3][6]。
直記の死後は、直記の長男鉄雄(明治30年2月19日生、昭和2年4月15日承、昭和18年5月24日没)が相続し、3代子爵となった[3][6]。しかし鉄雄には娘2人しかおらず、鉄雄の死後に女性戸主が立てられたため、失爵した[3]。
鉄雄の代の昭和前期に山岡子爵家の住居は東京市浅草区光月町にあった[2]。
系図
[編集]- 実線は実子、点線(縦)は養子。系図は『平成新修旧華族家系大成 下巻』に準拠[3]。
山岡信吉 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
山岡鉄舟[† 1] | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
直記 | まつ | 鈴 | 静造 | しま | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
鉄雄 | 直雄 | 幹子 | 龍雄 | 駸男 | 數男 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
美代子 | 春子 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
- 系譜注
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]参考文献
[編集]- 小田部雄次『華族 近代日本貴族の虚像と実像』中央公論新社〈中公新書1836〉、2006年(平成18年)。ISBN 978-4121018366。
- 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成 下巻』霞会館、1996年(平成8年)。ISBN 978-4642036719。
- 華族大鑑刊行会『華族大鑑』日本図書センター〈日本人物誌叢書7〉、1990年(平成2年)。ISBN 978-4820540342。
- 牛山栄治『定本山岡鉄舟』新人物往来社、1976年(昭和51年)。
- 小川恭一『寛政譜以降旗本家百科事典5巻』東洋書林、1998年(平成10年)。ISBN 978-4887213074。