コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

山崎助一

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
山崎 助一
生誕 1889年7月7日
日本の旗 日本 佐賀県
死没 (1943-08-04) 1943年8月4日(54歳没)
所属組織  大日本帝国海軍
軍歴 1911年 - 1942年
1942年 - 1943年
最終階級 海軍少将
テンプレートを表示

山崎 助一(やまさき すけいち、1889年明治22年)7月7日[1] - 1943年昭和18年)8月4日[1])は、日本海軍軍人。最終階級は海軍少将位階勲等功級は従四位勲三等功四級[2][3]

経歴

[編集]

佐賀県出身。1911年(明治44年)7月、海軍兵学校第39期を卒業し[4]1912年(大正元年)12月に海軍少尉に任官した[4]。「大和」「夕凪」各乗組などを経て[4]1919年(大正8年)12月、海軍大尉に進級して海軍水雷学校高等科学生となった[4]。その後、「」乗組[4]、「陸奥」分隊長などを経て[4]1925年(大正14年)4月20日に「伏見」艦長に就任し[4]12月1日海軍少佐に進級した[4]1926年(大正15年)6月に「勢多」艦長に移り[4]、「那珂」「青葉」「山城」「陸奥」各水雷長兼分隊長などを歴任した[4]1931年(昭和6年)12月に海軍中佐に進級し[4]、「名取」「鳥海」各副長[4]佐世保海兵団副長兼教官を歴任し[4]1936年(昭和11年)12月に海軍大佐進級と同時に馬公防備隊司令に着任した[4]

1938年(昭和13年)12月に「迅鯨」艦長に転じ[4]1939年(昭和14年)11月に第15砲艦隊司令に転じた[4]1940年(昭和15年)11月に第15防備隊司令(第2遣支艦隊・海南島根拠地隊[5])に就任して海南島に出動し、1941年(昭和16年)7月に第15警備隊司令(海南警備府[6])となった[4]1942年(昭和17年)2月1日佐世保鎮守府附となり[4]4月27日に待命[4]4月28日に予備役に編入されたが即日充員召集され[4]、佐世保鎮守府附となった[4]。同年7月30日には第11航空艦隊司令部附となり[4]8月7日に「神威」艦長に就任し[4]太平洋戦争に出征した[1]1943年(昭和18年)5月3日に佐世保鎮守府附となり[4]8月4日に戦病死した[1][4][3]。同日任海軍少将[3]

年譜

[編集]

脚注

[編集]

参考文献

[編集]
  • 福川秀樹 編著『日本海軍将官辞典』芙蓉書房出版、2000年。ISBN 482950272X 
  • 外山操 編『陸海軍将官人事総覧 海軍篇』芙蓉書房出版、1981年。ISBN 4829500034 
  • 海軍歴史保存会 編集『日本海軍史 第10巻』海軍歴史保存会、1995年。 
  • 坂本正器、福川秀樹 編著『日本海軍編制事典』芙蓉書房出版、2003年。ISBN 4829503300