山本三太郎
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山本 三太郎(やまもと さんたろう、1837年9月17日(天保8年8月18日[1][注釈 1])- 1897年(明治30年)2月4日[2][3][注釈 2])は、明治期の実業家、政治家。衆議院議員。旧姓・加藤。幼名・徳次[4]。
経歴
[編集]三河国宝飯郡前芝村[1][4](愛知県[2]宝飯郡前芝村[5]を経て現豊橋市前芝町[1][4])で、豪農・加藤六蔵正柔の二男として生まれた[1][4]。15歳で同郡下地村(下地町を経て現:豊橋市下地町)の農業、製油販売業、先代・山本三太郎の養嗣子となる[4]。漢学を大田晴軒に、武術を寺尾大之進に師事した[1]。その後、家督を相続し三太郎を襲名した[4]。
1881年(明治14年)荒山防止のため銀行類似会社・保荒社を設立し[1][4]、1882年(明治15年)宝飯銀行の創設に参画し頭取に就任[4]。1894年(明治27年)3月、豊橋米穀取引所が設立されると初代理事長となった[1][4]。
戸長を務めた[2][5]。また、愛知県会議員を1880年(明治13年)から1894年(明治27年)まで5期12年10カ月務め[1][2][4][5]、この間、同郡部会副議長、同参事会員に在任[4]。1891年(明治24年)宝飯郡会議員にも就任した[2][4][5]。
1894年9月、第4回衆議院議員総選挙(愛知県第10区)で、選挙期間中、山本は名古屋にいて選挙運動を行わなかったが当選し[1][4][6]、衆議院議員に1期在任した[2][5]。議員在任中の1897年に病となり帰郷して[4]同年10月に死去した[3]。
国政選挙歴
[編集]- 第2回衆議院議員総選挙(愛知県第10区、1892年2月、無所属)次点落選[7]
- 第3回衆議院議員総選挙(愛知県第10区、1894年3月、立憲革新党)次点落選[7]
- 第4回衆議院議員総選挙(愛知県第10区、1894年9月、立憲革新党)当選[6]