山本宗覚
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時代 | 戦国時代→江戸時代前期 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 寛永21年(1644年) |
改名 | 正倶(正倫)→宗覚 |
別名 | 三郎右衛門(通称)、重忠 |
戒名 | 宗覚 |
官位 | 中務大輔 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 細川忠興 |
藩 | 熊本藩 |
氏族 | 山本氏 |
父母 | 八郎 |
子 | 三四郎 |
山本 宗覚(やまもと そうかく、不明 - 1644年)は、 戦国時代から江戸時代前期の武士・猿楽師。山本正倶(正倫)、山本中務大輔重忠とも。
概要
[編集]熊本藩に伝わる『能口伝之聞書』には「若狭衆、観世小次郎弟子、山本中務云」とあり、若狭国出身で観世小次郎(観世元頼、観世長俊の嫡子)に師事していたことがわかる[1]。
『綿考輯録』によると、元亀4年(1573年)の第二次淀古城の戦いにて初めて細川忠興に仕え、六つ鉄線紋を賜ったという。丹後国入国の際には二百石、関ヶ原の戦いの後には四百石に加増された。元和5年(1619年)に忠興がキリシタンであった加賀山隼人の処刑を決めた際には、討伐を命じられたという。翌年に忠興が出家した際には同時に剃髪し、宗の字を賜り宗覚と名乗り、忠興が亡くなる2年前(寛永19年、1644年)に病死した[2]。
天正19年2月28日(1591年4月21日)に千利休が切腹した際には介錯人を務めた。