山本怡仙
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山本 怡仙(やまもと いせん、1828年(文政11年) - 1880年(明治13年)9月12日)は日本の実業家、教育者。幼名は仙次郎、字は等一、通称は平三郎また階、怡仙、怡僲、別に楳堂或いは梅堂逸人とも号した。松井耕雪、松村友松とともに幕末から明治初期にかけて「府中三人衆」とも称すべき人物で、府中の文化産業の発展に尽くした功績は甚だ大きい。
人物
[編集]- 越前府中(現福井県越前市、旧武生市)に生まれた。生家は代々、酢の製造を業とし、「天王屋」と称し、領主本多家の御用商人だった。
- 1856年府中に立教館を創設し、その資金を寄付した。
- 1863年福井藩士三岡八郎(由利公正)と相謀り、酢をオランダへ輸出しようとしたが、失敗した。
- 1872年武生進修小学校開校に尽力した。教師、学務員に任ぜられた。
- 1879年北海道に渡り開拓使工業局に勤務した。産業発展策を論じた建白書を提出し、私費をもって越前から三木某外一名を招き、屋根瓦を製造せしめた。月寒村に煉瓦工場を造り、専門の職人を呼び寄せ、札幌の煉瓦製造の基礎を築いた。
- 1880年乗馬で石狩川沿岸の地質調査中落馬し、それが原因となって死去。法名は智光院以信日覚居士。町村金弥が遺骨を郷里の武生へ送りとどけた。