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山村良安

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
山村良安
時代 江戸時代初期
生誕 文禄元年(1592年
死没 元和4年7月24日1618年9月12日[1]
別名 通称:七郎右衛門[1]
戒名 常安院殿奇山宗恭大居士
墓所 長野県木曽町興禅寺
幕府 江戸幕府旗本
主君 徳川義直
尾張藩
氏族 山村氏
父母 父:山村良勝、母:遠山友忠[1]
兄弟 良安稲葉主計[1]良豊良弘
石黒重時
遠山友政[1]
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山村 良安(やまむら たかやす)は、江戸時代初期の交代寄合(旗本)。後に尾張藩の重臣(大年寄)。木曾代官福島関所の関守。

文禄元年(1592年)、山村良勝の長男として下総国の網戸(阿知戸)で生まれた。

慶長13年(1608年)、父・良勝が隠居すると家督を継ぎ、江戸幕府の交代寄合(旗本)・木曾代官・福島関所の関守となる。

大坂冬の陣では徳川義直に従い、千村氏や家臣団の古畑・西尾・島崎・原・宮川・亀子・村井・遠山・沼田・武居・吉村・宮地・平野・上田・今井・野尻・向井らで天王寺口を守備した。

慶長15年(1610年妻籠宿六斎市(各月3日、8日、13日、18日、23日、28日)を立てることを許可する。

元和元年(1615年)、木曾が尾張藩の所領に移管されると徳川義直に仕え、大年寄になるとともに木曾代官に任じられた任じられた[2]

元和4年(1618年)江戸にて出仕中に死去。享年27。

江戸白金の西照寺に葬られた。後年、西照寺の火災により墓所が不明となり、仮石碑・位牌は興禅寺に安置された。

家督は再び父・良勝が継ぎ、義直に再出仕した上で、弟の山村良豊が家督を継いだ。

脚注

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  1. ^ a b c d e 『寛政重修諸家譜』第627
  2. ^ が、引き続き幕府から福島関所の管理も任された

出典

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