山村良安
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時代 | 江戸時代初期 |
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生誕 | 文禄元年(1592年) |
死没 | 元和4年7月24日(1618年9月12日)[1] |
別名 | 通称:七郎右衛門[1] |
戒名 | 常安院殿奇山宗恭大居士 |
墓所 | 長野県木曽町興禅寺 |
幕府 | 江戸幕府旗本 |
主君 | 徳川義直 |
藩 | 尾張藩士 |
氏族 | 山村氏 |
父母 | 父:山村良勝、母:遠山友忠娘[1] |
兄弟 |
良安、稲葉主計室[1]、良豊、良弘、 石黒重時室 |
妻 | 遠山友政娘[1] |
山村 良安(やまむら たかやす)は、江戸時代初期の交代寄合(旗本)。後に尾張藩の重臣(大年寄)。木曾代官・福島関所の関守。
文禄元年(1592年)、山村良勝の長男として下総国の網戸(阿知戸)で生まれた。
慶長13年(1608年)、父・良勝が隠居すると家督を継ぎ、江戸幕府の交代寄合(旗本)・木曾代官・福島関所の関守となる。
大坂冬の陣では徳川義直に従い、千村氏や家臣団の古畑・西尾・島崎・原・宮川・亀子・村井・遠山・沼田・武居・吉村・宮地・平野・上田・今井・野尻・向井らで天王寺口を守備した。
慶長15年(1610年)妻籠宿で六斎市(各月3日、8日、13日、18日、23日、28日)を立てることを許可する。
元和元年(1615年)、木曾が尾張藩の所領に移管されると徳川義直に仕え、大年寄になるとともに木曾代官に任じられた任じられた[2]。
元和4年(1618年)江戸にて出仕中に死去。享年27。
江戸白金の西照寺に葬られた。後年、西照寺の火災により墓所が不明となり、仮石碑・位牌は興禅寺に安置された。
家督は再び父・良勝が継ぎ、義直に再出仕した上で、弟の山村良豊が家督を継いだ。
脚注
[編集]出典
[編集]- 堀田正敦 編「国立国会図書館デジタルコレクション 第627」『寛政重修諸家譜』 。
- 三百藩家臣人名事典4
- 山口村史 山口村誌 上巻〔第四章 近世〕三代 山村良安 七郎右衛門 p424 ~p425