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山田亦介

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
山田 亦介
時代 江戸時代末期(幕末
生誕 文化6年12月18日1809年2月2日
死没 元治元年12月19日-(1865年1月16日
別名 通称:亦介、卯七、:憲之、公章、号:愛山、含賞斎
墓所 東光寺
幕府 江戸幕府
長州藩
父母 父:山田家
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山田 亦介(やまだ またすけ)は、幕末長州藩士甲子殉難十一烈士の一人。

略歴

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大組頭山田家の嫡男。村田清風の甥にあたる。甥に初代司法大臣・陸軍中将の山田顕義がいる。

長沼流兵学を学び、弘化2年(1845年)には吉田松陰(寅次郎、当時15歳)に教授している。嘉永5年(1852年)、古賀侗庵の『海防憶測』を出版した罪で隠居となり、知行も削減される。安政5年(1858年)には隠居雇として海防や軍艦「庚申丸」製造に関わり、銃士隊の編成を進言する。

しかし、長州藩内の主導権を握った俗論党によって、萩の野山獄にて57歳で処刑された。