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山田宇右衛門

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
山田宇右衛門
時代 江戸時代
生誕 文化10年9月9日1813年10月2日
死没 慶応3年11月11日1867年12月6日
別名 諱:頼毅
号:治心気斎、星山
主君 毛利敬親
長州藩藩士
父母 増野茂左衛門山田三郎右衛門
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山田 宇右衛門(やまだ うえもん)は、江戸時代後期の武士長州藩士

来歴

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生家は増野氏。大組・山田氏(禄高100石)の養子になって家督を継ぐ。安政元年(1854年相州警衛総奉行手先役、安政3年(1856年徳地代官万延元年(1860年)遠方方、文久3年(1863年奥阿武代官、元治元年(1864年郡奉行を歴任。

安政2年(1855年)7月、西洋式鉄製大砲鋳造方法を習得するため、反射炉築造に成功していた佐賀藩に派遣されるが交渉は失敗した[1](ただし、その後も他の藩士が交渉に赴き、最終的に萩反射炉が築造されている)。

文久2年(1862年)政務座・学習院用掛のとき京都にあり、尊王攘夷運動に参加した。ただし藩政においては中立派に属していた。長州藩では元治元年(1864年)の第一次長州征討を期に討幕派(長州正義派)が勢力を弱め、恭順派(俗論派)が台頭していたが、同年の正義派によるクーデター(功山寺挙兵)によって再び討幕派が藩政を握ると、慶応元年(1865年)番頭格・政務座役に就任。参政首座となって、木戸孝允とともに藩内における指導的立場となり、兵学教授として軍備拡張を推進するなど藩政刷新に尽力した。しかし、慶応3年(1867年)に明治維新を前に病没。

山鹿流兵学は吉田大助について学び、大助の養子である吉田松陰の後見役でもあった。

登場作品

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脚注

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  1. ^ 萩反射炉 - 九州・山口の近代化産業遺産群 世界遺産登録推進協議会ウェブサイト

外部リンク

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