山科李蹊
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山科 李蹊(やましな りけい、元禄15年(1702年) - 延享4年8月8日(1747年9月12日))は、江戸時代中期の医者。名は元富。字は子潤。通称は宗安。
人物
[編集]京都の出身[1]。山科広安の子。朝廷の侍医の家柄で、16歳で法橋に叙せられたのを皮切りに、法眼、法印と進み、仙寿院の号を賜与された[2]。
多芸な人物で、特に墨竹画については、宮崎筠圃、浅井図南、御園中渠とともに「平安の四竹」と称された[1][2]。
延享4年(1747年)、46歳にて没した[2]。
脚注
[編集]- ^ a b 『扶桑画人伝 巻之四』29丁表
- ^ a b c 『大日本人名辞書 下巻』2743頁
参考文献
[編集]- 古筆了仲 編『扶桑画人伝 巻之四』(阪昌員、1888)
- 大日本人名辞書刊行会 編『大日本人名辞書 下巻』(大日本人名辞書刊行、1926)