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山脇正治

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
山脇 正治
泉谷祐勝(左)と山脇正治(右)
1903年秋の練習風景
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 東京
生年月日 1885年
没年月日 1959年12月24日
選手情報
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督歴

山脇 正治(やまわき まさはる、1885年[1] - 1959年12月24日[2])は、東京府出身のアマチュア野球選手、プロ野球監督

来歴・人物

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旧制早稲田中学(現・早稲田中学校・高等学校)時代に早稲田大学野球部の創設者である安部磯雄に見いだされ、早稲田大学野球部に入部[3]捕手として「早稲田のエース」河野安通志を支え、1903年の第一回早慶戦や1905年の米国遠征に参加する[3]。1907年から1910年まで早稲田大学野球部キャプテンを務め、1910年のハワイ遠征を以て大学野球を引退[3]。そのままアメリカに残り、9年後の1919年11月に帰国[4]

早稲田大学野球部主将時代の1908年11月22日にアメリカ合衆国から米大リーグ選抜チームであるリーチ・オール・アメリカンチームが来日し、戸塚球場で早稲田大学野球部との試合を行った際[5]に、早稲田大学創設者の大隈重信が日本野球史上初となる始球式を行うことになり、早稲田の先頭打者として打席に立った山脇が大隈の投じた一球をわざと空振りしたことが現在に伝わる始球式の形態になっていると言う[6]

その後スポーツ社交団体である天狗倶楽部の野球部にて活躍。天狗倶楽部には、後に後楽園イーグルス(プロ野球球団大和軍の前身球団)を共に結成する事となる押川清河野安通志らがいた。

1937年株式会社 後楽園野球倶楽部(通称:後楽園イーグルス)を押川や河野が結成する[7]と、山脇は常務取締役に就任し、球団経営に携わった。

1939年9月6日森茂雄の後を継いで、イーグルスの監督(2代目)になった[8]。翌1940年6月9日まで指揮を執り(1940年は総監督[1]。後任の監督は沢東洋男。)、監督としての通算成績は69試合で30勝37敗2分、勝率.448であった。

1959年東京都大田区の自宅で死去[2]

1904年の早稲田大学野球部
(前列左端が山脇正治)

詳細情報

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背番号

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  • なし (1939年 - 1940年)[9]

通算監督成績

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  • 69試合 30勝37敗2分、勝率.448

脚注

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  1. ^ a b 野球回廊(山脇正治のページ)
  2. ^ a b 『朝日新聞』1959年12月25日朝刊10頁「山脇正治氏死去」
  3. ^ a b c 『読売新聞』1918年4月25日朝刊5頁「名選手の行方=6 山脇君の地位」
  4. ^ 『東京朝日新聞』1919年11月14日朝刊5頁「巨人軍は来まい 山脇氏の米国運動界みやげ」
  5. ^ 波多野勝、2001年、「第三章 伝説の日米決戦」、『日米野球史 メジャーを追いかけた70年』、PHP研究所〈PHP新書〉 pp. 34
  6. ^ 造事務所、2014年、「始球式の元祖となった野球部は現在も女人禁制」、『早稲田大学の「今」を読む OB・現役学生なら知っておきたい大学の真実』、実業之日本社〈じっぴコンパクト新書〉 pp. 62
  7. ^ 1937年(昭和12年)新参加球団(国民リーグのHP)[リンク切れ]
  8. ^ 『読売新聞』1939年6月14日朝刊4頁「イ軍総監督に山脇氏」
  9. ^ 背番号Maniax(大和 背番号なし)

関連項目

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