山路彰善
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山路 彰善(やまじ あきよし、天保12年(1841年) - 明治21年(1888年)6月5日)は、幕末の天文学者。最後の天文方山路彰常の嫡男。歴史家山路愛山の父。通称・一郎。
経歴
[編集]父の元で天文方見習を務めており英語や数学に優れていたが、大叔母である奥留ふき子(曽祖父山路徳風の実娘)の意向を受けた父の命によってふき子の娘・けい子(愛山の生母)を娶わせられたことから、父と不仲となり、けい子が慶応3年7月5日(1867年8月4日)に病没した後も解消されたなかったという[1]。
江戸城が開城されると、彰義隊に参加して上野戦争で敗北、一旦は自宅に戻ったものの、榎本武揚の旧幕府海軍とともに江戸を脱出し、以後旧幕府軍とともに各地を転戦、箱館戦争で敗れて捕らえられて津山藩に預けられた。明治5年(1872年)に赦免されて、父に引き取られて息子が待つ静岡に赴いた。だが、失意のうちに旧幕臣の授産施設である横内勧工所に勤めながら、息子の愛山に手習いや英語を教えてその教育に務めつつも、酒に浸るようになっていった。愛山が小学上等3年で就学を断念して就労独学に至った背景には、一郎の放蕩による家産の喪失という事情があったとされている。晩年は愛山の影響を受けてキリスト教を信じるようになると、酒を断って「徳川武士の典型的老士」(愛山の回想より)として没したという。
脚注
[編集]- ^ ふき子は山路家一族の長老的存在であり、宗家当主の彰常も頭が上がらず、ふき子の要望を受けて彰善に相談もせず縁組を決めてしまった。しかも、けい子は才媛であったが、幼い頃に痘を患ったために顔に痕が残っていたことが彰善の心を傷つけ、戊辰戦争以前より彼には放蕩の癖があったのだという(坂本多加雄『山路愛山』(吉川弘文館 人物叢書、1988年) ISBN 978-4-642-05156-9 )。