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山隅衛

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
山隅 衛
(やまずみ まもる)
誕生 (1894-06-25) 1894年6月25日
広島県佐伯郡廿日市町
死没 (1960-04-25) 1960年4月25日(65歳没)
職業 歌人教員
言語 日本語
国籍 日本の旗 日本
ジャンル 短歌俳句
代表作 『遍路』『虚仮』『山隅衛全歌集』
所属 広島県国民詩歌協会
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山隅 衛(やまずみ まもる、1894年明治27年〉6月25日 - 1960年昭和35年〉4月25日)は、日本歌人教員広島県佐伯郡廿日市町(後の廿日市市)出身。

1914年大正3年)に小学校の教員職についた[1]1916年(大正5年)に短歌を始め、1921年(大正10年)に文芸月刊雑誌『晩鐘』を創刊。自身も「間茂留」名義で短歌、俳句童謡を掲載した。1944年(昭和19年)に広島県国民詩歌協会を設立し、理事長職についた[1]

1945年(昭和20年)には広島市への原子爆弾投下に遭ったが、九死に一生を得た[2]。戦後は広島実践高等女学校(後の鈴峰女子高等女学校)で国語を教える傍ら[2][3]、同学校自治会文芸部の機関誌『鈴峯』の指導、同誌への短歌の寄稿[3]、学年別教育誌『ぎんのすず』の執筆、広島刑務所の受刑者への短歌指導も行なった[1]。『晩鐘』は一時休刊したものの、山隅の没後も刊行され続け、創刊から約80年後の2001年平成13年)終刊に至るまで、多くの歌人を輩出した[1]。原爆歌人として知られる正田篠枝も『晩鐘』に所属し、山隅に師事した歌人の1人である[2]

地方文化の発展に寄与し、広島歌壇の元老との評価もある人物だが[2]、山隅自身は「歌人」の名で特別な人間として扱われることを嫌っていたという[4]。歌集に『遍路』『虚仮』[2]、没後の1992年平成4年)に刊行された『山隅衛全歌集』がある。廿日市市桜尾本町の桂公園内には「山隅衛歌碑」が建立されている[4]

脚注

[編集]
  1. ^ a b c d 広島ゆかりの文学者”. 広島市立図書館. 2020年11月14日閲覧。
  2. ^ a b c d e 水田九八二郎『目をあけば修羅 被爆歌人正田篠枝の生涯』未来社、1983年10月12日、47-49頁。ISBN 978-4-624-41040-7 
  3. ^ a b 鈴峯学園物語”. 鈴峯女子短期大学. 2014年3月12日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年11月24日閲覧。
  4. ^ a b 歌集 虚假”. ひろしま文化大百科 (2007年). 2014年3月11日閲覧。