コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

岡本則録

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
岡本 則錄
大正3年頃の岡本則録。
人物情報
別名 岡本 彦次郎
生誕 1847年12月7日
江戸、神田御玉ケ池
死没 (1931-02-17) 1931年2月17日(83歳没)
学問
主な指導学生 松岡文太郎[1]
中條澄清[2]
山田萬太郎[3]
テンプレートを表示

岡本 則錄(おかもと のりふみ、おかもと のりぶみ、1847年12月7日弘化4年10月30日[4] - 1931年昭和6年)2月17日)は、日本数学教育者、陸軍教授和算から西洋数学へ転向し、文科省に横書きの教科書を刊行するよう建議した[5]日本数学会の前身である東京数学会社の設立に携わった。

海軍の中川勝行荒川重平の訳語統一を支援し[6]、「公理」「数学」などの語を発案した[7]

経歴

[編集]

長谷川弘に師事した[8]。1886年12月17日、奏任官四等で陸軍教授に就任[9]。1889年2月7日非職となったが[10]、1890年4月12日に復職し、砲工学校教官になった[11]。成城学校など小中学校の、教頭・校長を務めた[12][13][14]。晩年は、和算書をまとめた『和算圖書目錄』の作成に勤しんだ[15]

栄典

[編集]

著書

[編集]

出典

[編集]
  1. ^ 『陪審法大鑑 : 昭和新制記念』忠愛会本部陪審法調査研究部、1929年、268頁。NDLJP:1273507 
  2. ^ 小倉 1933, p. 324.
  3. ^ 根生 誠「明治期の攻玉社における数学教育と数学教師養成について」『数学教育史研究』第8巻、2008年、1-13頁、ISSN 1347-0221 
  4. ^ 岡本則録』 - コトバンク
  5. ^ 『明治文化発祥記念誌』大日本文明協会、1924年、44頁。NDLJP:1078981 
  6. ^ 佐々木 元太郎「幾何用語”合同”と菊池大麓」『日本数学教育学会誌』第76巻、1994年、29-57頁、ISSN 0021-471X 
  7. ^ 『学術の日本 第1篇』中央公論社、1942年、32,50,79-80,82頁。NDLJP:1768250 
  8. ^ 鈴木武雄「平山 諦先生と平山文庫」『木這子: 東北大学附属図書館報』第33巻第1号、2008年、2,6、ISSN 0385-7506 
  9. ^ 『官報』第1042号、1886年12月18日、NDLJP:2944276 
  10. ^ 『官報』第1681号、1889年2月8日、NDLJP:2944923 
  11. ^ 『官報』第2032号、1890年4月12日、NDLJP:2945284 
  12. ^ 『東京府中学校程度男女学校入学案内』三友堂書店、1913年、88頁。NDLJP:912915 
  13. ^ 柳原極堂『友人子規』前田出版社、1946年、56頁。NDLJP:1069385 
  14. ^ 『掌中官員録』西村組出版組、1875年。NDLJP:993586 
  15. ^ 寺島柾史『日本科学史年表 : 世界対照』霞ケ関書房、1942年、217,410頁。NDLJP:1124205 
  16. ^ 『官報』第1124号、1887年4月2日、NDLJP:2944358 

参考文献

[編集]

外部リンク

[編集]
公職
先代
山県悌三郎
愛媛県師範学校長
1883年 - 1885年
次代
佐竹義和
先代
村松賢一
松山中学校長
愛媛県第一中学校
1884年 - 1885年
松山中学校長
1883年 - 1884年
次代
黒川雲登
先代
諸葛信澄
日本の旗 大阪師範学校
1875年 - 1876年
次代
西村貞
学職
先代
神田孝平
柳楢悦
東京数学会社社長
1878年 - 1880年
(神田孝平と共同)
次代
柳楢悦
その他の役職
先代
児玉源太郎
奥山三郎
成城学校長
1910年 - 1916年
1901年 - 1903年
次代
澤柳政太郎
児玉源太郎
先代
諸葛信澄
華族学校学監
学習院学監
1877年 - 1878年
華族学校学監
1877年
次代
(欠員→学監廃止)