岡田井蔵
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岡田 井蔵(おかだ せいぞう、天保8年1月20日(1837年2月24日) - 明治37年(1904年)7月28日)は、日本の武士(幕臣)、海軍技官。諱は敬感。写真が岡田以蔵のものと混同されることがあるが、別人である。なお、以蔵をモデルとした写真、肖像画は現存しない。
略歴
[編集]西丸一番組御徒岡田定十郎と香山氏の四男として江戸に生まれる。両親が早く亡くなり兄、増太郎の厄介となる。天保14年(1843年)に兄が御徒から浦賀奉行所組与力に昇進したため、浦賀に移る。1852年、昌平黌に入学し、漢学を修めた。
安政3年(1856年)に長崎海軍伝習所の第2期生に選ばれ、機関学を学んだ。その後、安政6年(1859年)に軍艦操練所教授方手伝出役となる。万延元年(1860年)、「咸臨丸」が渡米したときの見習士官赤松大三郎、小杉雅之進、根津欽次郎らの1人であり、蒸気方見習を務めた。
帰国後は「朝陽丸」の機関士官となり、小笠原諸島の入植、徳川家茂上洛時の警護などに当たる。軍艦蒸気役一等(場所高300俵外役扶持十三人扶持 席軍艦役並の次)にまで昇進した
幕府の崩壊後は上総に逃れたが、明治3年(1870年)に工部省准十四等出仕となり、横須賀製鉄所に製図掛の責任者として勤務。明治4年(1871年)に主船少師(十等官)、明治15年(1882年)に海軍一等師(八等官)、明治17年(1884年)に横須賀造船所製図掛機械部主任、機械課工場長を務めた。明治19年(1887年)に非職となり、墓碑には明治22年(1889年)に退職したとある。砲艦「磐城」(ばんじょう)、巡洋艦「海門」などの設計を手がけたという。
親族
[編集]参考文献
[編集]- 新人物往来社編『世界を見た幕末維新の英雄たち』、新人物往来社〈別冊歴史読本64〉、2007年3月。ISBN 978-4-404-03364-2、46-47頁
- 彦根正三編『改正官員録』― 近代デジタルライブラリー