岩下貞融
岩下 貞融(いわした さだみち、享和元年(1801年)1月14日 - 慶応3年(1867年)9月10日)は、江戸時代後期の国学者・歴史家である。本姓は滋野、号は桜園(おうえん)または菅山。字は会侯(のりまろ)。通称は多門。[1]善光寺町第一の学者として知られる。[2]
名前の読み方
[編集]貞融の読みを「さだあき」とするのが散見されるが、「さだみち」が正しい。なぜなら、自著の「義僕伝蔵伝」(弘化4年)で「貞融」に「さだみち」とふりがなを振っているからである(画像を参照)。また、昭和51年(1976年)に建てられた長野市横沢町にある岩下貞融の碑の文章にも、「サダミチ」とルビが振られている。[1]
生涯
[編集]商人である岩下貞諒の子として信濃の善光寺大門町に生まれる。11歳でに善光寺大勧進の寺侍となり、文政3年(1820年)に名古屋で冢田大峯に学ぶ。次いで京都で頼山陽に学び、翌年善光寺に帰る。文政5年(1822年)には江戸に行き、清水浜臣に学んだ。[3]
和漢の学に通じ、和歌・詩文・国学関係の多くの著書をなした[4]。また、善光寺の歴史や古典籍の注釈などにも豊富な知識を有し[5]、詩歌書画も能くした。雅楽を奏する楽人でもあった[4]。近世善光寺を代表する学者で、伴信友や黒川春村、『江戸繁昌記』で有名な寺門静軒等多くの学者とも交流を持った。
小林一茶を世に出した人々の一人であり、羽田墨芳の『一茶発句集』(嘉永版)に序文を寄せて、一茶を称えている。また漢詩文集『桜園雨後』では、一茶の「松陰に寝てくふ六十余州哉」を、神社の幟用に「松陰于寝食六十有余州」と作り変えている。[2]
きわめて多数の著作があったが、弘化4年(1847年)の善光寺大地震で多くの著作が失われてしまい、現存するものは少ない。この時、岩下は父祖伝来の太刀、琵琶をはじめ、岩下文庫の書籍およそ5000巻を焼失したという。[3]
慶応3年(1867年)死去。享年67歳。法名「菅山院釈敬道桜園居士」。墓は長野市の康楽寺にある。[3]
また、善光寺西の横沢町の旧居跡に、「桜園岩下貞融顕彰碑」が建てられている。[1]
著書
[編集]- 『善光寺史略』
- 『善光寺別当伝略』
- 『芋井三宝記』
- 本来24巻からなる大著で、善光寺に関する総合研究書として注目すべきものであるが、惜しくも善光寺大地震で失われ、先頭の6巻を残すのみとなった。[6]
- 『不繋舟(つながぬふね)』
- 『桜園雨後』
- 4巻2冊。漢文詩集。巻1は文化13年(1816年)より文政8年(1825年)に至る詩103首、巻2は文政9年(1826年)より弘化4年(1847年)に至る詩44首、巻3は引、記、碑文、銘、題跋、像賛、幟、連を収め、巻4は嘉永2年(1849年)より文久2年(1862年)に至る詩118首である。文久2年出版。[6]
- 『天八衢(あめのやちまた)』
- 『義僕伝蔵伝』
- 『堤中納言物語標注』
- 1巻。岩下貞融の著書の中で最も高い評価を受けている。『堤中納言物語』を解題し、本文に注を加えたもの。昭和16年(1941年)藤田徳太郎が『王朝文学の歴史と精神』の中で紹介してから世に出、昭和42年(1967年)刊の土岐武治『堤中納言物語の研究』には20ページにわたって詳説されている。[6]
- 『ひとりごと』
- 1巻。日本における香の歴史を述べた書。[6]
- 『桜園集』
- 10巻。善光寺大地震で文3巻歌1巻を残して焼失。[6]
- 『桜園外集』
- 6巻。『桜園集』の続編で、和文和歌集。善光寺大地震で1巻を残して焼失。[6]
- 『草津私記』
- 『沓野日記』
- 1巻。文政9年沓野の温泉に遊んだ時の日記。[6]
- 『桜園詩文』
- 漢詩文集。善光寺大地震で1巻を残して焼失。所在不明。[6]
- 『桜園詩話』
- 3巻。地震で2巻を焼失。所在不明。[6]
- 『枕草子夜話抄』
- 『枕草子』の注釈書。「桜園著述目録」にその名が見え、『不繋舟』にはその自序のみが載る。所在不明。[6]
- 『天の御中』
- 1巻。神道思想の書。所在不明。[6]
以下は焼失したものである。
- 『孝経集伝』
- 『中庸微頭』
- 『二十四番唱和詩』
- 『六運要略』
- 『転音例』
- 『伊呂波小伝』
- 『歌体弁』
- 『管樵暇筆』
- 『桜園叢書』
- 『桜園叢説』
脚注
[編集]- ^ a b c 『長野市の筆塚 第一集』信学会、1982年1月1日、55-56頁。
- ^ a b 『善光寺の一茶』光竜堂、2018年12月28日、34頁。
- ^ a b c 『長野 第67号』長野郷土史研究会、1976年5月1日、74,75頁。
- ^ a b “人物 | もっと!長野市 CITY PROMOTION”. nagano-citypromotion.com. 2023年3月5日閲覧。
- ^ a b 日本人名大辞典+Plus,朝日日本歴史人物事典, デジタル版. “岩下貞融(いわした さだあき)とは? 意味や使い方”. コトバンク. 2023年3月5日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 『長野 第67号』長野郷土史研究会、1976年5月1日、70-73頁。
外部リンク
[編集]- 岩下貞融『ひとりごと』(1861年)信州デジタルコモンズ
- 岩下貞融『堤中納言物語 全』(1833年)信州デジタルコモンズ
- 岩下貞融『芋井三宝記 3巻』【全巻まとめ】,写. 国立国会図書館デジタルコレクション
- 岩下桜園(貞融)『桜園雨後』(1862年)国立公文書館デジタルアーカイブ
- 岩下貞融『天八衢』(1849年)国立公文書館デジタルアーカイブ
- 岩下貞融『善光寺別当伝略』(明治?年)国立公文書館デジタルアーカイブ
- 岩下貞融『善光寺史略』(明治?年)国立公文書館デジタルアーカイブ
- 岩下貞融『不繋舟』(1858年)国立公文書館デジタルアーカイブ
- 藤田徳太郎 著『王朝文学の歴史と精神』,楽浪書院,昭和16. 国立国会図書館デジタルコレクション - 「岩下貞融の堤中納言物語研究」のページ。