大久保藩
大久保藩(おおくぼはん)は、陸奥国岩瀬郡大久保村(現在の福島県須賀川市大久保)に陣屋を置き、江戸時代前期に短期間存在した藩[1][2]。岩瀬藩(いわせはん)とも呼ばれる[3][2][注釈 1]。1682年、播磨明石藩6万石の藩主であった本多政利が失政などを咎められ、大幅な減封を受けて1万石で移されたが、行状が改まらなかったために1693年に改易された。
歴史
[編集]前史:減転封までの本多政利
[編集]本多政利は、「徳川四天王」の一人である本多忠勝の曾孫にあたる人物であり、忠勝系本多家の家督を継いだ本多政勝の子である。譜代の名家の出身であり、正室には水戸藩主徳川頼房の娘を迎えている[4]。
ただし政利が大名となるまでに、本多家は複雑な相続事情を有した。本多忠勝の家は長男の忠政からその子の政朝に受け継がれた。政朝が死去した際、その長男・本多政長は幼少であったため、遺言によって従弟の本多政勝(忠勝の二男・忠朝の子)が本家を継ぐこととなった[6]。政勝は大和郡山藩15万石の藩主となった[6]。寛文11年(1671年)に政勝が没すると、政勝の養子に迎えられていた政長と、政勝の実子である政利との間で相続をめぐる騒動が勃発し、幕府の裁定によって政長に9万石、政利に6万石が与えられることとなった(九六騒動)[7][8]。
延宝7年(1679年)、本多政利は播磨国明石藩に6万石で移された[4][9][10]。
立藩から廃藩まで
[編集]天和2年(1682年)2月22日、明石藩主本多政利は城地没収の上、改めて陸奥国岩瀬郡内で1万石を与えられた[4]。この処分について『寛政重修諸家譜』は、「家政よろしからず」という点、先年の巡見使[注釈 2]への不適切な対応[注釈 3]という理由を掲げる[4]。なお同日付で遠江国横須賀藩(5万石)の藩主本多利長[注釈 4]も失政などを理由として、城地没収のうえ出羽国村山藩1万石に移す処分が行われている。
政利に与えられた領地は、「長沼領」と呼ばれる幕府領[注釈 5]から分割された11か村であり[15]、大久保村に陣屋が置かれた[16]。政利は大久保藩主として領地には入ったことはなく[17]、江戸の藩邸に暮らしていた[17]。
大久保藩の藩政に関する史料はほとんど残されていない[17]。大桑原村(現在の須賀川市大桑原)の年貢割符状が、天和2年(1682年)分と貞享元年(1684年)分の2点伝わっているが、長沼領時代に比べると米や金の賦課が倍となり、災害以外の除き高(控除)がなく、新規の課税を行うなどの内容となっている[17]。6万石から1万石への大幅な減知処分を受けた藩として、収入の確保を図った措置とは見なされるものの、領民に重い負担を課した「悪政」という評価は避けられない[17]。
元禄6年(1693年)6月13日に改易処分を受け[4]、政利は庄内藩主酒井忠真に預けられた[4]。改易の理由は、行状を改めず、さらに罪のない女性奉公人(侍女ないしは下女)を殺害する事件を起こしたためとされる[注釈 6]。
後史
[編集]本多政利は庄内でも問題を起こし、元禄15年(1702年)に三河岡崎藩主水野忠之の預かりに変えられた[4]。宝永4年(1707年)、政利は岡崎において67歳で没した。
歴代藩主
[編集]- 本多家
1万石。譜代。
領地
[編集]領地は岩瀬郡の以下11か村[3]。
陣屋は大久保村字宿に置かれたとされる[20]。ただし、陣屋周辺に陣屋町が築かれた様子は見られない[20]。
大久保藩の廃藩により、その所領は収公された。その後、元禄13年(1700年)に松平頼隆(徳川頼房の五男)が陸奥国岩瀬郡内および常陸国内で2万石の領地を与えられると、長沼に陣屋を置いた(長沼藩。常陸府中藩参照)[21]。大久保村[1]や大桑原村[22]などは長沼藩領となっている。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 『寛政重修諸家譜』では領地が「陸奥国岩瀬郡のうち」とあるものの、居所の表示はない[4]。『土芥寇讎記』では居所が「奥州岩瀬」と表記されている[5]。
- ^ 延宝9年/天和元年(1681年)、徳川綱吉は将軍就任後に諸国に巡見使を派遣、大名の統治や軍備についての調査を行わせた[11]。巡見使は後年には儀礼化するが、天和元年の派遣時には、領民が領主や藩役人の悪政を巡見使に訴え出て処分に結び付くなど[11]、将軍権力を強化し支配機構を粛正する実効性を有していた[12]。越後高田藩の藩政の混乱(越後騒動)は延宝9年(1681年)に綱吉の親裁により松平光長の改易という結末を迎えるが、領民から虐政の訴えを受けた巡見使から提出された報告が判断のもとになっている[11]。
- ^ 『寛政譜』の本多政利の項には「巡見の使封地にいたるのとき、其はからひ御旨に違ひしにより」とある[4]。
- ^ 同族ではあるが、本多広孝・康重の子孫であり、男系ではかなりの隔たりがある。
- ^ 「長沼領」は慶安2年(1649年)より幕府領となっていた地域で[13][14]、31か村2万石余を治める代官所が岩瀬郡長沼村(須賀川市長沼)に置かれていた[13]。
- ^ 『寛政譜』によれば「先に御気色をかうぶるの処、いまに至て其行跡をあらためず。させる罪科もなき侍女を殺害し、不仁なる所行台聴に達し、領知を没収せられ」[4]。『徳川実紀』によれば「平常の言行不良なれば、さきにもいましめられしに、こたび罪なき婢を殺したるにより、所領一万石収公せられ[18]」とある。また、政利は女色にふけった[3]という風説が同時代からあり[19]、『明良洪範』では明石藩改易の原因として、城下に遊女屋を建てて入り浸ったことを記している[19]。『土芥寇讎記』編者は色欲関係の風説には懐疑的であるが、そうした風説を招く平素の不徳を批判している[19]。
出典
[編集]- ^ a b “大久保村(近世)”. 角川地名大辞典. 2023年6月4日閲覧。
- ^ a b 『藩と城下町の事典』, p. 60.
- ^ a b c “岩瀬藩”. 日本大百科全書(ニッポニカ) (コトバンク所収). 2023年6月4日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j 『寛政重修諸家譜』巻第六百八十一「本多」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第四輯』p.636。
- ^ 白峰旬 2008, p. 114.
- ^ a b “本多政勝”. デジタル版 日本人名大辞典+Plus(コトバンク所収). 2023年6月4日閲覧。
- ^ “郡山藩”. 日本大百科全書(ニッポニカ) (コトバンク所収). 2023年6月4日閲覧。
- ^ 『藩と城下町の事典』, p. 429.
- ^ “本多政利”. デジタル版 日本人名大辞典+Plus(コトバンク所収). 2023年6月4日閲覧。
- ^ “明石藩”. 日本大百科全書(ニッポニカ) (コトバンク所収). 2023年6月4日閲覧。
- ^ a b c 馬場憲一 1972, p. 62.
- ^ 馬場憲一 1972, p. 63.
- ^ a b “長沼村(近世)”. 角川地名大辞典. 2023年6月4日閲覧。
- ^ “長沼町勢要覧 -021/044page”. 長沼町勢要覧. 長沼町教育委員会. 2023年6月4日閲覧。
- ^ a b “ふるさと昔話 - 038/056page”. ふるさと昔話. 岩瀬村教育委員会. 2023年6月4日閲覧。
- ^ “大久保藩”. 角川地名大辞典. 2023年6月4日閲覧。
- ^ a b c d e f “ふるさと昔話 - 039/056page”. ふるさと昔話. 岩瀬村教育委員会. 2023年6月4日閲覧。
- ^ 『徳川実紀』巻二七
- ^ a b c 小田真裕 2004, p. 16.
- ^ a b 土平博 2009, p. 71.
- ^ “長沼藩”. 角川地名大辞典. 2023年6月4日閲覧。
- ^ “大桑原村(近世)”. 角川地名大辞典. 2023年6月4日閲覧。
参考文献
[編集]- 藤野保・木村礎・村上直編 『藩史大事典 第1巻 北海道・東北編』 雄山閣 1988年 ISBN 4-639-10033-7
- 二木謙一監修、工藤寛正編『藩と城下町の事典』東京堂出版、2004年。
- 馬場憲一「諸国巡見使制度について : 幕府政治との関連を中心に」『法政史学』第24号、1972年 。
- 土平博「近世陣屋と町の形態に関する再検討:陸奥国南部を事例として」『奈良大学紀要』第37号、奈良大学、2009年3月。CRID 1520853832215841408 。
- 小田真裕「0410800804[各論]容認される大名・賞賛される大名」『「土芥寇讎記」の基礎的研究』〈(2004年度科学研究費補助金(特定領域研究(2))研究報告書)〉2004年。CRID 1130000794469928448 。
- 白峰旬「『土芥寇讎記』における「居城」・「居所」表記に関する一考察」『別府大学大学院紀要』第10号、2008年。CRID 1050845762774842368 。