コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

岩越恒一

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
岩越 恒一
岩越恒一
生誕 1878年12月18日
大阪府
死没 (1945-10-30) 1945年10月30日(66歳没)
所属組織  大日本帝国陸軍
軍歴 1900 - 1938
最終階級 陸軍中将
指揮 東部防衛司令官
第3師団
佐世保要塞司令官
電信第2連隊長
戦闘 シベリア出兵
二・二六事件
墓所 多磨霊園
テンプレートを表示

岩越 恒一(いわこし つねいち、1878年明治11年)12月18日[1][2] - 1945年昭和20年)10月30日[1][2])は、日本陸軍軍人。最終階級は陸軍中将

経歴

[編集]

大阪府出身[1]。岩越直右衛門の長男として生れる[1]大阪中学校を経て、1900年(明治33年)11月、陸軍士官学校(12期)を卒業[1][2][3]。翌年6月、工兵少尉に任官し工兵第3大隊付となる[1][3]。陸士教官などを経て、1912年(大正元年)11月、陸軍大学校(24期)を卒業[1][2][4]

1913年(大正2年)6月、陸軍省軍務局付勤務となり、同課員、電信隊付、交通兵団司令部員、陸大教官などを経て、1921年(大正10年)12月、臨時鉄道連隊長となりシベリア出兵に動員された[1][2][4]1922年(大正11年)8月、工兵大佐に昇進し参謀本部通信課長に就任[1][4]1924年(大正13年)7月から翌年1月まで欧州に出張[1]。電信第2連隊長を経て、1927年(昭和2年)7月、陸軍少将に進級し佐世保要塞司令官に就任[1][2][4]

1928年(昭和3年)8月、陸軍通信学校長に就任し、陸軍工兵学校長、陸軍砲工学校長を歴任し、1932年(昭和7年)4月、陸軍中将に進んだ[1][2][4]1933年(昭和8年)8月、工兵監となり、1935年(昭和10年)3月、第3師団長に親補され満州に駐屯した[1][2][4]1936年(昭和11年)3月、参謀本部付となり、翌月、東京警備司令官東部防衛司令官に就任し、同年7月まで二・二六事件に伴う戒厳司令官を兼務した[1][2][4]1937年(昭和12年)8月に待命となり、翌月、予備役編入となった[1][2][4]

栄典

[編集]
位階
勲章等

親族

[編集]

脚注

[編集]
  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 『日本陸海軍総合事典』第2版、23頁。
  2. ^ a b c d e f g h i j 『日本陸軍将官辞典』108頁。
  3. ^ a b 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』165、169-170頁。
  4. ^ a b c d e f g h 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』169-170頁。
  5. ^ 『官報』第5484号「叙任及辞令」1901年10月11日。
  6. ^ 『官報』第8185号「叙任及辞令」1910年10月1日。
  7. ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。

参考文献

[編集]
  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
  • 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。