岩越恒一
岩越 恒一 | |
---|---|
岩越恒一 | |
生誕 |
1878年12月18日 大阪府 |
死没 | 1945年10月30日(66歳没) |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
軍歴 | 1900 - 1938 |
最終階級 | 陸軍中将 |
指揮 |
東部防衛司令官 第3師団長 佐世保要塞司令官 電信第2連隊長 |
戦闘 |
シベリア出兵 二・二六事件 |
墓所 | 多磨霊園 |
岩越 恒一(いわこし つねいち、1878年(明治11年)12月18日[1][2] - 1945年(昭和20年)10月30日[1][2])は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。
経歴
[編集]大阪府出身[1]。岩越直右衛門の長男として生れる[1]。大阪中学校を経て、1900年(明治33年)11月、陸軍士官学校(12期)を卒業[1][2][3]。翌年6月、工兵少尉に任官し工兵第3大隊付となる[1][3]。陸士教官などを経て、1912年(大正元年)11月、陸軍大学校(24期)を卒業[1][2][4]。
1913年(大正2年)6月、陸軍省軍務局付勤務となり、同課員、電信隊付、交通兵団司令部員、陸大教官などを経て、1921年(大正10年)12月、臨時鉄道連隊長となりシベリア出兵に動員された[1][2][4]。1922年(大正11年)8月、工兵大佐に昇進し参謀本部通信課長に就任[1][4]。1924年(大正13年)7月から翌年1月まで欧州に出張[1]。電信第2連隊長を経て、1927年(昭和2年)7月、陸軍少将に進級し佐世保要塞司令官に就任[1][2][4]。
1928年(昭和3年)8月、陸軍通信学校長に就任し、陸軍工兵学校長、陸軍砲工学校長を歴任し、1932年(昭和7年)4月、陸軍中将に進んだ[1][2][4]。1933年(昭和8年)8月、工兵監となり、1935年(昭和10年)3月、第3師団長に親補され満州に駐屯した[1][2][4]。1936年(昭和11年)3月、参謀本部付となり、翌月、東京警備司令官兼東部防衛司令官に就任し、同年7月まで二・二六事件に伴う戒厳司令官を兼務した[1][2][4]。1937年(昭和12年)8月に待命となり、翌月、予備役編入となった[1][2][4]。
栄典
[編集]- 位階
- 勲章等
- 1940年(昭和15年)8月15日 - 紀元二千六百年祝典記念章[7]