峯風 (駆逐艦)
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艦歴 | |
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計画 | 1917年度(八四艦隊案) |
起工 | 1918年4月20日 |
進水 | 1919年2月8日 |
竣工 | 1920年5月29日 |
その後 | 1944年2月10日戦没。 |
除籍 | 1944年3月31日 |
要目 | |
排水量 | 基準:1,215トン 公試:1,345トン |
全長 | 102.6メートル |
全幅 | 8.92メートル |
吃水 | 2.79メートル |
機関 | ロ号艦本式缶4基 パーソンズ式タービン2基2軸 38,500馬力 |
速力 | 39ノット |
航続距離 | 14ノットで3,600カイリ |
燃料 | 重油:395トン |
乗員 | 154名 |
兵装 | 45口径12cm単装砲4門 6.5mm単装機銃2挺 53.3cm連装魚雷発射管3基 (魚雷8本) 一号機雷16個 |
峯風(みねかぜ)は、日本海軍の駆逐艦。峯風型の1番艦である。「峰風」と表記される場合がある。艦名は峯に吹く風に由来する。
艦歴
[編集]舞鶴海軍工廠で建造。一等駆逐艦に類別され、横須賀鎮守府籍に編入された。
1920年(大正9年)12月、同型艦の「澤風」、「矢風」、「沖風」と共に第二駆逐隊を編成し、第二艦隊第二水雷戦隊に編入された。
1932年(昭和7年)、第一次上海事変に際して、長江水域の諸作戦に参加した。1937年(昭和12年)から1939年(昭和14年)には、日中戦争における華北・華中沿岸での諸作戦に従事。
1940年(昭和15年)10月11日、横浜港沖で行われた紀元二千六百年特別観艦式に参加[1]。
1941年(昭和16年)9月15日、鎮海警備府に編入され、対馬海峡方面で哨戒活動を行った。
1942年(昭和17年)4月10日、「峯風」は佐世保防備戦隊に編入された。同月12日に佐世保を出港し、佐世保近海で哨戒活動を実施。9月25日に佐世保を出港し、サイパン島、トラック島、ラバウルへの船団護衛に従事する。11月12日に佐世保に入港し、整備・補給を行った。11月27日に佐世保を出港し、佐世保・東シナ海方面において船団護衛、哨戒監視に従事。12月1日、佐世保に帰港した。1943年(昭和18年)も引き続き東シナ海方面での船団護衛任務に従事する。
1944年(昭和19年)2月1日、「峯風」は第一海上護衛隊に編入され、2月5日に門司港を出港し高雄までモタ02船団の護衛任務に就いたが、2月10日に米潜水艦「ポーギー」の雷撃により台湾沖にて沈没した[2]。
歴代艦長
[編集]※『艦長たちの軍艦史』218-219頁による。階級は就任時のもの。
艤装員長
[編集]- 木田新平 少佐:1918年12月1日[3] - 1919年3月15日[4]
- (兼)木田新平 少佐:1919年3月15日[4] - 1919年4月1日[5]
- (兼・心得)木田新平 少佐:1919年4月1日[5] -
艦長
[編集]- 木田新平 少佐:1919年3月15日[4] - 1919年4月1日[5]
- (心得)木田新平 少佐:1919年4月1日[5] - 1920年12月1日[6]
- 木田新平 中佐:1920年12月1日[6] - 1921年12月1日[7]
- (心得)蒲田静三 少佐:1921年12月1日[7] - 1922年9月20日 同日より予備艦
- (兼)山田松次郎 中佐:1922年9月20日[8] - 1922年12月1日[9]
- (心得)千谷定衛 少佐:1922年12月1日 - 1923年12月1日
- 千谷定衛 中佐:1923年12月1日 - 1924年12月1日
- 穂本繁治 少佐:1924年12月1日 - 1925年12月1日
- 藤堂功 中佐:1925年12月1日 - 1926年12月1日 ※1926年8月1日より予備艦
- 小林徹理 少佐:1926年12月1日 - 1927年12月1日
- 帖佐敬吉 少佐:1927年12月1日 - 1928年12月10日 同日より予備艦
- (兼)柴田力 少佐:1928年12月10日 - 1929年11月30日[10]
- (兼)阪匡身 少佐:1929年11月30日[10] - 1930年11月20日[11]
- 河西虎三 少佐:1930年11月30日 - 1932年12月1日(1931年11月14日より「澤風」艦長兼任)
- 成田茂一 少佐:1932年12月1日 - 1934年11月15日
- 森圭作 少佐:1934年11月15日 - 1935年4月1日 同日より予備艦
- (兼)沢村成二 少佐:1935年4月1日[12] - 1935年7月18日[13]
- (兼)吉田義行 少佐:1935年7月18日[13] - 1935年12月11日[14]
- (兼)白石長義 少佐:1935年12月11日[14] - 1936年6月15日[15]
- (兼)亀山峯五郎 中佐:1936年6月15日[15] - 1937年3月1日
- 杉岡幸七 少佐:1937年12月1日 - 1938年8月2日[16]
- (臨時)塚本守太郎 少佐:1938年8月2日[16] - 1938年8月25日[17]
- (兼)鈴木保厚 少佐:1938年8月25日 - 1938年11月10日 ※1938年8月25日より予備艦
- (兼)岩橋透 少佐:1938年11月10日[18] - 1938年12月5日[19]
- (兼)久保木英雄 少佐:1938年12月5日[19] - 1938年12月15日[20]
- 青木久治 少佐:1938年12月15日 - 1940年11月15日[21]
- 森卓次 少佐:1940年11月15日 - 1941年4月10日[22]
- 肝付正明 少佐:1941年4月10日 - 1941年9月10日[23]
- 若杉次一 少佐:1941年9月10日 -
- 犬塚家孝 少佐:1942年7月25日 -
- 伍賀守雄 大尉:1943年5月18日 -
- 今泉正次郎 大尉:1943年12月1日 - 1944年2月10日戦死
脚注
[編集]- ^ 『紀元二千六百年祝典記録・第六冊』、369頁
- ^ 「昭和18年11月15日~昭和19年11月30日 海上護衛総司令部戦時日誌(1)』」 アジア歴史資料センター Ref.C08030137300 、画像51。
- ^ 『官報』第1900号、大正7年12月3日。
- ^ a b c 『官報』第1984号、大正8年3月17日。
- ^ a b c d 『官報』第1997号、大正8年4月2日。
- ^ a b 『官報』第2501号、大正9年12月2日。
- ^ a b 『官報』第2801号、大正10年12月2日。
- ^ 『官報』第3043号、大正11年9月21日。
- ^ 『官報』第3102号、大正11年12月2日。
- ^ a b 『官報』第878号、昭和4年12月2日。
- ^ 『官報』第1170号、昭和5年11月21日。
- ^ 『官報』第2472号、昭和10年4月2日。
- ^ a b 『官報』第2563号、昭和10年7月19日。
- ^ a b 『官報』第2684号、昭和10年12月12日。
- ^ a b 『官報』第2835号、昭和11年6月16日。
- ^ a b 「海軍辞令公報(部内限)号外 第220号 昭和13年8月3日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072074200
- ^ 「海軍辞令公報(部内限)号外 第230号 昭和13年8月25日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072074200
- ^ 「海軍辞令公報(部内限)号外 第259号 昭和13年11月10日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072074500
- ^ a b 「海軍辞令公報(部内限)号外 第269号 昭和13年12月5日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072074700
- ^ 「海軍辞令公報(部内限)号外 第273号 昭和13年12月15日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072074800
- ^ 「海軍辞令公報(部内限)第555号 昭和15年11月15日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072079500
- ^ 「海軍辞令公報(部内限)第614号 昭和16年4月10日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072080700
- ^ 「海軍辞令公報(部内限)第708号 昭和16年9月10日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072082000
参考文献
[編集]- 『丸スペシャル』第51号 日本の駆逐艦II、潮書房、1981年。
- 外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年。 ISBN 4-7698-1246-9
- 海軍歴史保存会編『日本海軍史』第7巻、発売:第一法規出版、1995年。