峰山陣屋跡のエノキ
峰山陣屋跡のエノキ(みねやまじんやあとのエノキ)は、京都府京丹後市峰山町に所在する落葉高木エノキ(学名:Celtis sinensis var.japonica)の古木である。2008年(平成20年)7月8日、京丹後市指定天然記念物に指定された[1][2]。
かつては約1,000平方メートルにも及ぶといわれた、最大の特徴である樹冠は、2015年(平成27年)の大雪によって根元近くから枝の1本が失われたことにより、3分の2ほどまで縮小した[2]。
特徴
[編集]胸高の幹周り4.43メートル、樹高約15メートル[3]。一般的にエノキは腐りやすい木であるが、峰山陣屋跡のエノキは古木であるものの大きな腐りはなく樹勢が盛んで、樹冠投影面積1000平方メートルに及んだ枝ぶりが最大の特徴とされ、京丹後市指定天然記念物に指定された[3][4]。樹齢は推定250~300年[3]。
かつては根本近くから二股に幹が聳え、枝を広げていたが、2015年(平成27年)に雪の重みで1本が根元近くから折れて失われ、現在は1本立ちとなっている[2]。
歴史
[編集]関ヶ原の戦い以降、明治維新まで一帯を支配した峯山藩京極氏の拠点となった峰山陣屋跡地の、石段の脇に生育する[2]。立地から考えて天然木ではなく、陣屋が整備された後に植樹されたものと推定される[3][4]。
京極氏の拠点は、関ケ原以前には権現山に築いた吉原山城であったが、江戸時代に入ってこの山城を廃して、山麓の丘陵地に整備された[2](峰山城)。『峰山郷土史』によれば、1622年(元和元年)のことと伝えられる[注 1]。明治維新までの約250年間、初代京極高通から12代京極高陳までの在所となった[4]。
峯山藩は、この陣屋を中心に侍屋敷や長屋などが整備され、城下町が形成された。京極氏は1720年(享保5年)に藩内の絹屋佐平治(のちの森田治郎兵衛)によって創織された丹後ちりめんを手厚く保護し、金刀比羅神社を創建するなど、現在の峰山町の基礎を築いた。陣屋は、その城下町を見下ろす高台に所在した[2]。頂の広場には、明治時代に丹後ちりめんで財を成し、峰山町の近代化に大きく貢献して「縮緬王」と称された吉村伊助の顕彰碑が建つ。建物は廃藩置県の後に失われ、2014年(平成26年)時点で、周辺の跡地は畑となっている[2][4][5]。 木のふもとには峰山町第一区区民会館があり、エノキは現在でも地域住民のシンボルとされている[2]。
現地情報
[編集]所在地
[編集]交通アクセス
[編集]周辺情報
[編集]脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]外部リンク
[編集]- ウィキメディア・コモンズには、峰山陣屋跡のエノキに関するカテゴリがあります。
座標: 北緯35度37分53.0秒 東経135度3分12.5秒 / 北緯35.631389度 東経135.053472度