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島定治郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

島 定治郎(しま ていじろう[1]1877年明治10年)3月5日[2] - 1935年昭和10年)4月19日[3])は、日本政治家貴族院議員)[1][3]商人貿易[4])、資産家[5]、大阪府多額納税[6]実業家。族籍は大阪府平民[4][6]大阪株式取引所理事長島徳蔵の弟。

経歴

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大阪府平民・島徳治郎の二男[4]。島徳蔵の弟[4][7]慶應義塾に学んだ[6]1906年に特選[8][注 1]。福島紡績に勤務[1]1902年、分家して一家を創立した[6]1904年、大阪市東区淡路町にて島商店を創業した[10]。貿易商を営む[2]

日米板硝子、日本硝子工業、島貿易、城北土地各社長[3][11]、日新自動車代表取締役、日本板硝子、島商店、城北土地、大阪北港、大日本除虫粉各取締役、大阪アルカリ、満蒙毛織各監査役等をつとめた[4][6][7][11]

1918年貴族院多額納税者議員に当選し[4]、同年9月29日に就任して[12]同成会に所属[1]、一期在任し1925年9月28日に退任した[13]

人物

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大阪府多額納税者であり諸会社の重役であった[6]。住所は大阪市東区高麗橋[4]、三島郡山田村[6]、同郡茨木町[7][11]

家族・親族

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島家
  • 妻・きぬ1883年 - ?、大阪、北脇伊兵衛の長女[7]1935年、島貿易取締役に就任[10]
  • 長女・さき1903年 - ?、高知、吉村寅太郎の養子茂の妻)[7]
親戚

脚注

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注釈

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  1. ^ 『人事興信録 第9版』には、「明治二十六年慶應義塾を卒業」とある[7]。しかし『慶応義塾総覧 大正3年』によると、明治26年の卒業生に島定治郎の名はない[9]

出典

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  1. ^ a b c d 『議会制度七十年史 第1』196頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2020年9月6日閲覧。
  2. ^ a b 『大正人名辞典』1151頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2018年6月4日閲覧。
  3. ^ a b c 島 定治郎とはコトバンク。2017年10月5日閲覧。
  4. ^ a b c d e f g 『人事興信録 第6版』し45頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2017年10月5日閲覧。
  5. ^ 『全国五十万円以上資産家表 時事新報社第三回調査』7頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2018年6月2日閲覧。
  6. ^ a b c d e f g 『人事興信録 第7版』し51頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2017年10月5日閲覧。
  7. ^ a b c d e f 『人事興信録 第9版』シ46頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2017年10月5日閲覧。
  8. ^ 『慶応義塾塾員名簿 昭和4年版』862頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2017年10月5日閲覧。
  9. ^ 『慶応義塾総覧 大正3年』162-165頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2017年10月5日閲覧。
  10. ^ a b 会社案内、沿革、島貿易株式会社公式サイト。
  11. ^ a b c 『日本紳士録 第38版』大阪シ之部151頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2018年2月10日閲覧。
  12. ^ 『官報』第1848号、大正7年9月30日。
  13. ^ 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』203頁。

参考文献

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  • 慶応義塾編『慶応義塾総覧 大正3年』慶応義塾、1914年。 
  • 『全国五十万円以上資産家表 時事新報社第三回調査』時事新報社、1916年。 
  • 東洋新報社編『大正人名辞典』東洋新報社、1917年。 
  • 人事興信所編『人事興信録 第6版』人事興信所、1921年。 
  • 人事興信所編『人事興信録 第7版』人事興信所、1925年。 
  • 人事興信所編『人事興信録 第9版』人事興信所、1931年。 
  • 慶応義塾編『慶応義塾塾員名簿 昭和4年版』慶応義塾、1924-1942年。 
  • 交詢社編『日本紳士録 第38版』交詢社、1934年。 
  • 衆議院、参議院編『議会制度七十年史 第1』大蔵省印刷局、1960年。 
  • 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。 

外部リンク

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