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崔春国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
崔 春国
生誕 1914年
大日本帝国の旗 日本統治下朝鮮咸鏡北道穏城郡
死没 1950年7月30日
大韓民国の旗 大韓民国慶尚北道
所属組織 東北抗日聯軍
ソ連軍
朝鮮人民軍
最終階級 中尉(ソ連軍)
少将(北朝鮮軍)
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崔 春国(崔春國、チェ・チュングック、최춘국)は朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の満州派に属する軍人朝鮮戦争では第12師団を指揮。文献によって崔忠国(崔忠國、최춘국)と表記される。

経歴

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1914年、咸鏡北道の鉄道労働者の息子としてに生まれる。

汪清遊撃隊に入隊[1]。1930年、金日成の紹介で中国共産党に加入。1932年、汪清遊撃隊第2中隊指導員。1936年、抗日パルチザン東北抗日聯軍第2軍の連指導員。1937年4月、第2軍独立旅第1団団長。以後、第3方面軍第1団団長、警衛旅第3団政治委員を歴任。1940年7月頃、第3方面軍第13団政治委員兼任[2]。1940年9月、第5軍政治部主任季青の主導で道南特委が結成され、安吉朴徳山と共に委員に任命[3]。日本軍の討伐を逃れて1940年11月にソ連に入り、オケアンスカヤ野営学校に収容される[4]第88特別旅団第4大隊第7中隊副中隊長。1945年9月、北朝鮮に帰国し、咸鏡北道羅南警備司令部の責任者[5]や政治局員等を務める。

1950年6月、朝鮮戦争勃発。7月初旬に春川攻略の不手際で第12師団長の全宇少将が更迭され、後任として師団長に任命される。南進を指導したが、慶尚北道安東市における戦闘中、7月30日に地雷に触れて戦死。なお、兪成哲は迫撃砲の直撃による戦死と証言している[6]。第12師団は後に安東崔春国第12歩兵師団と改称された[7]

出典

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  1. ^ 和田 1992, p. 334.
  2. ^ 和田 1992, p. 284.
  3. ^ 和田 1992, p. 295.
  4. ^ 和田 1992, p. 290.
  5. ^ 和田 1992, p. 343.
  6. ^ 東亜日報 & 韓国日報 1992, pp. 114–115.
  7. ^ 조국해방전쟁에서 위훈을 세운 근위부대들”. ネナラ (2015年7月27日). 2018年3月23日閲覧。

参考文献

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  • 和田春樹『朝鮮戦争全史』岩波書店、2002年。ISBN 4-00-023809-4 
  • 和田春樹『金日成と満州抗日戦争』平凡社、1992年。ISBN 4-58-245603-0 
  • 佐々木春隆『朝鮮戦争前史としての韓国独立運動の研究』国書刊行会、1985年4月20日。NDLJP:12173181 
  • “揭秘:朝鲜战争中朝鲜人民军牺牲的第一位将领” (中国語). 鳳凰網. (2011年2月27日). http://news.ifeng.com/history/vp/detail_2011_02/27/4874085_0.shtml 2015年11月17日閲覧。 
  • 東亜日報; 韓国日報 編、黄民基 訳『金日成:その衝撃の実像』講談社、1992年。ISBN 4062058634