川元麑山
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川元 麑山(かわもと げいざん、寛政6年(1794年) - 明治4年2月17日(1871年4月6日))は、武士(鹿児島藩士)[1]。のちに僧侶、教育者[1]。
人物
[編集]鹿児島藩士であったが、のちに伊予国松山の鷲栄山において出家[1]。
弘化1年に常陸国鹿島郡滝浜の寺の庫裡を借りて塾を開いた[1]。それより27年間、同地において教育を行った[1]。
明治3年に門人・中山応助に塾を託し、涸沼を望む景勝地に草庵を建て、明治4年に77歳で病没するまでの1年ほどの間、麑山は同地を安住の地とした[1]。
没後、近くの寺院(新乗院)に葬られたが、のち同院が廃寺となり畑地が開墾されたことにともない、麑山の墓標などは消失された[1]。
参考文献
[編集]田口瑞穂『川元麑山先生と滝浜小学校』(水戸史学27号)水戸史学会、1987年。