川勝広有
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時代 | 江戸時代前期 |
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生誕 | 寛永8年(1631年) |
死没 | 延宝元年9月3日(1673年10月12日) |
別名 | 七九郎、孫四郎、内記(通称) |
戒名 | 蒼秋(法名) |
墓所 | 東京都港区東麻布の瑠璃光寺 |
幕府 | 江戸幕府 旗本 |
主君 | 徳川家光→家綱 |
氏族 | 川勝氏 |
父母 | 父:川勝広尚、母:長谷川守知娘 |
兄弟 | 広有、広友、松平勝忠室 |
妻 | 正室:松平伊耀娘 |
子 | 広利、新蔵、虎之助、五井松平忠明、織田信成正室、長谷川勝知室 |
川勝 広有(かわかつ ひろあり)は、江戸時代前期の旗本。秀氏流川勝家(本家)の3代当主。
生涯
[編集]寛永8年(1631年)、川勝広綱の嫡男川勝広尚の嫡男として江戸に生まれた。
正保元年(1644年)5月27日、14歳で初めて将軍徳川家光に謁見した。正保3年(1646年)7月6日、小姓組に列した。慶安3年(1650年)9月3日、西城書院番となり、後に小姓組に戻った。寛文元年(1661年)12月10日、祖父広綱の死去により、その家督を継いだ。知行は丹波内2,570石余。家督を継ぐ際、叔父川勝広氏に700石、叔父川勝広憲に300石を分知した。
寛文7年(1667年)閏2月28日、溝口源右衛門信勝、堀主膳親泰と伴に命により、諸国巡見使として伊豆、駿河、遠江、三河、尾張、伊勢、伊賀、志摩、近江、美濃、飛騨、信濃、甲斐の国を巡見した。寛文10年(1670年)6月19日より本所奉行を務めた。
延宝元年(1673年)9月3日、43歳で没した。家督は嫡男の広利が継いだ。
参考文献
[編集]- 『寛永諸家系図伝(第14)』続群書類従完成会、1992年
- 『寛政重修諸家譜(第18)新訂』続群書類従完成会、1981年
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