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川勝広有

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
川勝広有
時代 江戸時代前期
生誕 寛永8年(1631年
死没 延宝元年9月3日1673年10月12日
別名 七九郎、孫四郎、内記(通称)
戒名 蒼秋(法名)
墓所 東京都港区東麻布の瑠璃光寺
幕府 江戸幕府 旗本
主君 徳川家光家綱
氏族 川勝氏
父母 父:川勝広尚、母:長谷川守知
兄弟 広有広友松平勝忠
正室:松平伊耀
広利、新蔵、虎之助、五井松平忠明織田信成正室、長谷川勝知
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川勝 広有(かわかつ ひろあり)は、江戸時代前期の旗本。秀氏流川勝家(本家)の3代当主。

生涯

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寛永8年(1631年)、川勝広綱の嫡男川勝広尚の嫡男として江戸に生まれた。

正保元年(1644年)5月27日、14歳で初めて将軍徳川家光に謁見した。正保3年(1646年)7月6日、小姓組に列した。慶安3年(1650年)9月3日、西城書院番となり、後に小姓組に戻った。寛文元年(1661年)12月10日、祖父広綱の死去により、その家督を継いだ。知行は丹波内2,570石余。家督を継ぐ際、叔父川勝広氏に700石、叔父川勝広憲に300石を分知した。

寛文7年(1667年)閏2月28日、溝口源右衛門信勝堀主膳親泰と伴に命により、諸国巡見使として伊豆、駿河、遠江、三河、尾張、伊勢、伊賀、志摩、近江、美濃、飛騨、信濃、甲斐の国を巡見した。寛文10年(1670年)6月19日より本所奉行を務めた。

延宝元年(1673年)9月3日、43歳で没した。家督は嫡男の広利が継いだ。


参考文献

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  • 『寛永諸家系図伝(第14)』続群書類従完成会、1992年
  • 『寛政重修諸家譜(第18)新訂』続群書類従完成会、1981年


先代
川勝広綱
川勝継氏系秀氏流(本家)
3代:1661年 - 1673年
次代
川勝広利