川村敬三
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川村 敬三(かわむら のりみつ、弘化3年(1846年)[1] - 明治38年(1905年)8月21日)は、江戸時代末期の幕臣。兄に川村正平(恵十郎)、義弟に近藤芳助(川本三郎)、甥(正平の子)に川村花菱がいる[2]。
経歴
[編集]昌平坂学問所で優秀な成績を修め、剣道においても柳生新陰流で免許皆伝を得た。慶応3年(1867年)、横浜で英語伝習生に選ばれた[1]。
1868年、戊辰戦争においては、松平斉民に成績優秀に目をかけられ、命により彰義隊の暴発を抑えるためにこれに加入、頭取(次官格)として幹部に名を連ねる。しかし隊内の主戦派を抑えることができず、彰義隊は上野戦争で壊滅的な敗北を喫する。その後東北へ赴き、庄内藩を中心に奥羽列藩と政府との調停に奔走した。また、沼間守一らを庄内に派遣して酒田で農兵の訓練を担当させたり、榎本武揚艦隊に庄内藩救援を依頼し、長崎丸を派遣させるなどした[1]。
明治になってからは横浜で英学を修め、秀文館(修文館)において校長を務めた。1890年には、円通寺に天野八郎顕彰碑を建立する際に協力した[1]。1905年8月21日没。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 『真説 上野彰義隊』中央公論社〈中公文庫〉、1998年12月18日。ISBN 4-12-203309-8。