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川田忠之

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

川田忠之(かわだ ただゆき 、1965年5月3日 - )は、北海道出身のゲームクリエイター、元ハドソン社員、1986年から1990年にかけて活躍したファミコン名人の川田名人としても知られる[1]

来歴

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北海道苫小牧市出身[2]駒澤大学附属苫小牧高等学校[3]北海道スクールオヴビズネス専門学校卒業[4]。当時のハドソンがプログラマーを大量に必要としていたため、内定をもらった同級生に連れて来られるかたちで入社試験を受けた。高橋名人によると、入社試験はトイレ掃除であったという[5]

ファミコン名人として

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高橋名人の述懐によると、第2回全国キャラバンにおいて、高橋名人と当時ハドソンのアルバイトであった毛利名人の二人だけでは全国の会場を回ることができないという事情から、ハドソンは「名人」を拡充する必要に迫られていた。そこで新入社員にスターソルジャーをプレイさせ、高得点を収めた川田と桜田の二名が新たに名人としての活動を行う事となった。両名は「ファミコン名人高橋塾第一期生」として扱われていたとされる[6]

1986年に開催されたハドソン主催のイベント「第2回TDK全国キャラバン スターソルジャー ファミコン大会」で名人としてデビュー[7]。高橋名人によると、川田にはカメラの前でのトーク力に難があったが、そうした点が却ってファンから愛されたのだという[6]

クリエイターとして

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ハドソンでは『スーパースターソルジャー[8]ソルジャーブレイド』などのシューティングゲームや『ドレミファンタジー ミロンのドキドキ大冒険』といったアクションゲームなど同社の様々なゲームを多数手掛けた。

同社の『桃太郎電鉄』シリーズでは『11』以降主要スタッフとして制作に参加しており[9]、『11』制作の際に、前作でさくまが抱いていた不満点を全て解消した[10]ことから以降の作品では川田を筆頭とする「Team Kawada」が制作を手掛けるようになった。ハドソン吸収合併後に発売された『2017』の制作にもゲームディレクターとして関わっている[注 1]。同シリーズの作者・ゲーム監督であるさくまあきらは、川田のハドソン退社が決定した際に自身のブログにおいて「私と土居ちゃんにとっては、ここ10年間ぐらいは、川田忠之くんのために『桃太郎電鉄』を作っていたようなものだったので、どうしても『桃鉄』を作りたいという気持ちが失せてしまった。いわゆる「義理」がなくなってしまったのだ。」と語っている[11]

2010年8月、ハドソン退社[11]

2019年1月に札幌市豊平区平岸に株式会社MOMOを設立、代表取締役として現在もゲーム制作に携わっている[12]

参加作品

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ゲームデザイン
プロデュース
ディレクション
その他

脚注

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注釈

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  1. ^ 川田などシリーズの開発スタッフが移籍したヴァルハラゲームスタジオが開発を担当したため。

出典

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  1. ^ 高橋名人と川田名人が『スーパースターソルジャー』を語る! 電撃オンライン、2020年02月21日更新。
  2. ^ 16 仕事人裏日記、さくまあきら、2004年4月16日更新。
  3. ^ 北海道大移動 仕事人裏日記、さくまあきら、2006年8月24日更新。
  4. ^ 『現代日本人名録』第1巻1558ページ、日外アソシエーツ、1987年。
  5. ^ 高橋名人『川田名人と4年ぶりに再会』”. 高橋名人オフィシャルブログ「16連射のつぶやき」Powered by Ameba. 2021年10月13日閲覧。
  6. ^ a b 『高橋名人のゲーム35年史』 高橋名人 2018年 ポプラ新書 pp.79-81
  7. ^ 『高橋名人の目から見たファミコンブーム』 小山友介(芝浦工業大学システム理工学部教授)「デジタルゲーム学研究」Vol.3 No.2, 2009、213頁。
  8. ^ 高PCエンジン miniにまつわる対談企画が公式サイトでスタート!第1弾は意外な仕事ぶりも明らかとなる高橋×川田名人のスーパースターソルジャー編 IGN JAPAN、2020年2月27日配信。
  9. ^ ハドソン、シリーズ初のオンライン対戦を実現。DS「桃太郎電鉄20周年」を12月に発売
  10. ^ さくまあきらホームページ:仕事人裏日記 - 2002年9月20日
  11. ^ a b 桃太郎電鉄KINKI 仕事人裏日記、さくまあきら、2010年8月4日更新。
  12. ^ 会社概要 株式会社 MOMO

外部リンク

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